新民藝運動(Common Art Movement) | ambiguouswordsのブログ

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ジブリ映画『風立ちぬ』の予告編によると、1920年代は震災や不況があって、「まことに生きにくい時代であった」そうだ。
しかし、日本の歴史を見てみると、1920年代や30年代は海外からの新思想が広まり、工業技術も発達し、ダイナミックな時代であったとも感じる。

そんな1926年(大正15年)に、柳宗悦などによって民藝運動が提唱された。
芸術家が作った華美な装飾品ではなく、市井の職人が作った日用作品の中に美を見出す。
あたらしい価値観が多くの人に受け入れられ、陶芸、布製品、工芸品などのすぐれた作品が、人々の日常生活を豊かにした。

だが、現在「民藝」という言葉は、お土産物に使われていることが多い。
本来の「民衆的工芸」、「日常生活で使用する身近な製品の美」というような意味ではなく
「民俗的な工芸品」、「地方色豊かなお土産工芸品」という意味で使われていることが多い。

1920年代30年代に新鮮な視点を提供していた「民藝店」や「民藝館」も、
土産物屋や骨董品店と変わらないたたずまいになりつつある。

もういちど、美についての視点に新鮮さを取り戻すために、
新民藝運動を試みてもおもしろいのではないかと思う。

ただ、民藝界の重鎮が、すでに1960年代に「新民藝運動」を提唱している。
何か新しい名称が必要かもしれない。

世界的展開を考えるなら、「Common Art Movement」という表現はどうだろうかと想像する。
英語として正しいのかどうかわからないけど。

ニュアンス的には、日常生活芸術運動。
特別な装飾品ではなく、普段遣いの製品に見出す美。
Common Artは、Salon ArtやNoble Artと対照的な存在。
セレブの装飾品だけが美術品ではないのだ。

キッチン、ダイニング、文房具、おもちゃ、装飾品、道路脇、建築物、内装、工具、いろんなところに美的価値は見出せる。

殺人道具の刀にさえ美を見出した人々の子孫は、廃棄物や障害物にだって美を見出せるかもしれない。
まだまだ見いだされることなく埋没したままの美的構造は多く存在するはずだ。

現在の民藝は、地方の伝統的な手仕事を重視しているように見える。
だが、「貴族的な美」ではないところに美を見出した本来の民藝運動は、
新しい工芸品を否定してはいない。
工業製品に「民藝」を見出しても、見出すことが可能であるなら何の問題も無い。
美を見出すという一番大事な点において、あらゆる物に目を向けるのは当然の姿勢だ。
手仕事だけに美が宿るのではない。

そこで、Common Art Movementにおいては民俗的な東欧食器はもちろんモダンな北欧食器にも民芸的な美(Common Art Beauty)を見出す。
手作りの生活道具や生活雑貨だけが対象ではない。

ダイソンの扇風機やiRobotのルンバにも美を見出し、
ホンダの乗り物やオリンパスの医療機器にも美を見出す。
もちろんMacの製品もCommon Art Beautyと言っていいだろう。

あらゆるところに美やバランスの取れたデザインを見出す姿勢は、
ありふれたなんでもない世界をすばらしいものに変える。

それはデザイナーの視点と変わらないのでは、と言われるかもしれない。
たしかにデザイナーもありふれた日用品の中に美を盛り込む。美を見出す。

ただ、デザイナーは生産者(美を作り出す人)であり、
Common Art Movementに関わる人は消費者(美を楽しむ人)だ。
民藝運動は、美を味わう立場の人におけるものであるといえるだろう。
もちろん美を作り出す立場の人にとって参考となるものであってもいい。




などと妄想しているうちにまとまりがなくなったので中止。
民藝は手作りに限る、蕎麦は手打ちに限る、という人がいてもいい。
ただ、工業製品にもいいものがあることは、否定しなくてもいいと思う。