環境保護運動とか反差別運動とか(1/8放送「地球危機2008~古舘伊知郎が本気で伝えます」) | ambiguouswordsのブログ

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論理による判断が主流となっていない社会では、人々は論理ではなく印象、慣れあい、先入観、前例などによって判断することが多い。
そのような地域では、論理ではなく情に訴えたり印象を与えたりすることが説得力を持つ。

だから、むかしの日本では戦争をあおる記事を各新聞が掲載し、国民はそれに追従した。戦争を貫徹しなくちゃ、という空気が支配的になっていて、反対でもしようものなら非国民だ、スパイだ、などと咎められた。

戦後は、平和運動や反戦運動、学生運動に国民が追従した。
今は、反喫煙運動、環境保護運動などがそれに値するかも。
(理性的な運動もたくさんあると思いますけどね)

人々をあおる論調は、「それがあたりまえだ」という雰囲気のもとに進められる。論理的判断力を持たない人は、徐々にその雰囲気に飲み込まれていく。
流れに乗っておけば、当面不利益をこうむることはない。自分一人で判断して行動する自信がない人は、自分が責任を持たなくてもいいのでどんどんまわりの流れに合わせる。

<参考>
「冷静に考えると、論理などというのは、わが日本においては総人口の5%ぐらいの世界でしか通用しないのではないか。95%は論理以外の形容し難い何ものか ―観念だか、概念だか、刺激だか名指しできないもの― によって動いていると考えたほうがいい。そういう人々に対して、論理で物事を説明しようという発想自体が、そもそも間違っているのかもしれません」
(佐藤優「国家論 日本社会をどう強化するか」日本放送出版協会)


むかしの日本のメディアは「満洲は生命線だ、ここを守らなくては国民が壊滅的な状況に陥ってしまう。もはや戦いに打って出るしかない」。そういう情報を当然のこととして発信した。
同じように、戦後は「戦争はこんなに悲惨だ、何があっても戦争はしてはいけない」という情報を発信した。
また、「地球温暖化はこんなにおそろしい」という情報を繰り返し流して人々に刷り込む。
宣伝する論理は単純。だけど、その論理は科学的検証が不十分なことが多い。
だからこそ、情緒抜きで事実を理解すればいいだけのことでも、情緒や感情、感覚に訴えるのかもしれない。

そんなことを、1/8夜のテレ朝50周年記念番組「地球危機2008~古舘伊知郎が本気で伝えます‥‥地球温暖化でいま何が起きているか編集する」を見ながら思った。

<参考>
地球危機2008古舘伊知郎が本気で伝えます…地球温暖化でいま何が起きているか
▽緊急取材!海面上昇世界同時ドキュメント(1)満潮の東京湾で異変船が橋をくぐれない…(2)陸地が2000メートル後退で1万人の家が水没した環境難民の島▽信じられない…巨大湖が消滅藤原竜也が絶句した環境破壊の現場▽壮絶!シロクマが番犬を襲う北極で温暖化異変多発▽減少する熱帯雨林と傷つくオランウータン多部未華子が見た現実▽日本の海からサケが消える!?熱帯生物増殖▽ガラパゴス諸島から長野智子生中継…温暖化で進化するイグアナ


人々の不安をあおるように、さまざまな異常気象を計算もなく羅列している。
科学番組でもなければ政策提案番組でもない。視聴者の判断力を甘く見ているのかもしれないけど、少し内容に無責任さを感じる。

統計学的な検証もなく、都合のよいように部分的な異常気象を大きく取り上げる。
どこかで目にしたことがあるような手法だ。平和運動とか。
平和運動や環境運動に疑いのない人たちは、きっと戦争中に生まれたら戦争を疑わない人たちになっていたのではないだろうか。

ほんとうに戦争を起こしたくなかったら、環境を破壊したくなかったら、差別をなくしたかったら、信仰にすがる必要はない。
戦争反対や環境保護や差別反対という文言を南無阿弥陀仏あるいは南無妙法蓮華経、アーメン、アッラーアクバルなどのように唱える必要はない。

まずは価値観の違いや経済的な差異が生む争いや戦争の発生メカニズムを研究すればいい。
多様性にあふれた環境のダイナミックな循環の仕組みを研究すればいい。
価値観の違いが生む蔑視が大きな原因となっている差別問題の発生過程について研究すればいい。
そこから分析、研究、科学的対策ははじまる。

人と人や国と国がなぜ衝突するのかについて深く考えたことのない人が、
何万年もの間に地球上になぜ何度も大きな気候変動があったのか考えたことのない人が、
人はなぜ自分の理解できないことを見下したり拒絶したりすることがあるのか考えたことのない人が、
平和を祈っても、環境保護を祈っても、差別問題の解消を願っても、
そもそも平和や環境保護や差別がどういうものかほんとは把握していないと問題を解決することはむずかしい。

科学的な調査もなく扇動的な広告手法で反戦や環境保護をあおるのは政治活動としてはいいかもしれないけど、冷静な人からは共感を得られない。
いつかはそういう手法がすたれる時代も来るのではないか。

だけど、まだまだ日本ではあまり論理的な説明は必要とされていないのかもしれない。
イメージでなんとなく納得してもらうことが影響力を持っているのかもしれない。


先日も「部落」が差別語A指定になっていると聞いて驚いた。
X新聞の某氏もその語を最初から切り捨てようとしているようだけど、いったいどういう根拠でその語を絶対掲載しないのだろうか。どうして安易に「集落」の語に置き換えようとするのだろうか。
「部落」だと差別的だから?
では、なぜ差別的なのですか?
差別的に感じる人がいるから?
差別的に感じる人がいたら何でも差別語になるんですか?
何が差別的なのか、きちんと構造を指摘してもらえないのですか?

X新聞の人は文脈をよく見たのでしょうか。
あの文脈で「部落」という言葉を使うことは、まったく問題はありません。
学生時代、部落問題研究会というゼミに所属し、卒論では水平社運動の組織化などについて調べ、今も差別論に興味を持ち数十冊以上の差別関連書籍を持ってそれなりの持論はある私が保証します。
安易に事なかれ主義で非論理的なものに流されないでいただきたい。
っていうか、なんでもすぐ言い換えれば済むと思っている人は、ジャーナリストとして戦うことはできないのではないでしょうか。

手元にある「差別用語の基礎知識」(土曜美術社1990年刊)には下記のような記述がありました。

・p70
マスコミなどでは「部落」という言葉は「地区」あるいは「集落」などに言い換えるよう取り決めている。しかし、全国各地で「あの集落は」という言い方を日常会話でしているところは、ほとんどないだろう。
その意味で「部落」の言葉を差別語だとすることは考え過ぎ、対応のし過ぎである。その言葉が用いられたもののテーマ、前後の文脈から、日常語としての「地区」の意味で用いられるか、被差別部落を指して使われているか判断出来るはずである。
「部落問題」にかかわって多く使われている「同和」という用語も、「穢多」や「四つ」にかわって、被差別部落にかかわる新しい差別語と化して使われている状況もある。これもそれ自体は決して差別語ではないが、「あれは同和だ」など、差別的に用いられることがあるということである。

・p318
 本来、これらの言葉は、差別を助長するような使われ方が問題なのであって、歴史的事実を述べる場合や、実存する差別の実態を提示して、その解消を訴えるような場合はおのずから別である。


そもそも、部落という語自体には何のマイナスイメージもありません。
歴史的背景もありますが、読む人が勝手にこの語を蔑視するようになったことが問題。

部落解放運動をやっていた人たちが、最初からきちんと
「部落解放」ではなく「被差別部落解放」
「部落差別」ではなく「特定部落差別」
と正確に表現しておけばよかったのかもしれないけど、
部落部落と略して言っていたものだから、部落と言うと「被差別部落」の意味に認識されることとなってしまいました。
国立国語研究所は何をしているのでしょう。
きちんと、「部落っていう語にはマイナスイメージ、蔑視されるようなイメージはありません。部落という語をアンタッチャブルなものにするというのは、部落という歴史ある語について非常に失礼なことです」などと宣言してもいいのではないでしょうか。

「オレオレ詐欺」のことを「オレオレ」と言うのが慣例になって「あの人オレオレでつかまったらしいで」などと咎められるようになってきたら「オレ」という言葉がよくない言葉として認識され、「ボク」という語に言い換えられるようになるのでしょうか。
「もやしっ子」や「めがねっ子」という言葉が差別語だと糾弾されるようになったら「もやし」は「スプラウツ」、「めがね」は「グラッスィーズ」などに差し替えられることになるのでしょうか。

全然適切な例えが思い浮かびませんが、まあそういうことです。
本来何もマイナスイメージなどがついていない記号にしか過ぎない言葉に、マイナスイメージ、否定的イメージを付けるのは非論理的。
非論理的な人たちが呪文や迷信を信じ、差別を助長し、被差別者を差別するように、ある用語を差別語として排斥する。

とっても、あいまいな非論理的な世界。
論理について長い歴史がある欧米は社会が成熟しているのか、そんな言い方はしないようです。
日本では「おし(口がきけない)」や「つんぼ(耳が聞こえない)」や「めくら(目が見えない)」や「びっこを引く(足を引きずる)」は差別語としてメディアでは使えない状態ですが、
欧米では「dumb(おし)」や「deaf(つんぼ)」や「blind(めくら)」や「limp(びっこをひく)」という語が堂々とある状態を表す記号として使用されています。

残念ながら、差別をなくそうとして差別語を糾弾する人たちも、差別的心理を持っている場合が多い。
差別をなくしたかったら、まずは特定の用語を差別(否定、蔑視)するべきではないと思います。

本当に差別をなくしたかったら、まずは差別語扱いされている言葉に対する蔑視を問題視すべき。
「部落」という言葉にマイナスイメージを付けて侮辱的に使用する人がいたら、それはそのような人の意識が問題。
「部落」という言葉を消し去っても、侮辱的な言葉を吐きたい人たちは「同和」「童話」「メルヘン」「ブラック」等々の言葉を匿名掲示板で使用しています。
次々に「同和」「童話」「メルヘン」「ブラック」という言葉を次々と差別語に認定しても、問題の解決にはつながりません。

嫌な言葉を無くせば差別がなくなると発想するような人たちは、外見を見て中身を見ていないというか、表面を見ても構造を見ていない。
まずは、差別を糾弾するときはどういう構造を差別的と認識しているのか、説明してほしいと思います。
差別的に思う人がいるからその語を排斥するなんていうのは、論理的な説明ではありません。

明治になって、エタという言葉は差別的だということで新平民という言葉に変わりました。
それでもその人たちに対する蔑視が変わらないと、こんどは新平民という言葉は差別的だと言われるようになり、特殊部落という言葉が使われました。
でもそのうち特殊部落という言葉も差別的だと言われるようになり、被差別部落という言葉に言い換えられるようになり、略して部落と言う人が増えると部落という言葉すら差別的だと言う人が出てきました。

非論理的だからそんなことになって、どうどうめぐりが続き、差別がなくならないのです。
言葉狩りや言い換えによって差別的意識や差別的構造が解消されると思っている人も多いかもしれませんが、そんなふうに認識している人が多いことが、差別がなかなかなくならない一番の原因であると思います。
X新聞の方も、安易に空気に流されず、胸を張って差別語狩りに立ち向っていただきたいと思います。
もし反差別団体の非論理的なごり押しに付き合うのが面倒だから差しさわりのない表現を選んでいるというのであれば、各種団体の圧力に弱いそんなジャーナリズムはどっちみち長続きしないと思います。


※以上、ざっとまとまりなく書いてしまいましたが、いいかげんな文章なので後でちょこちょこ加筆修正するかもしれません。


<追記1/20 19:20>
ついさっきテレビ東京の「田舎に泊まろう!」という番組で、小豆島のおばさんの「百姓のほうに~」という発言が字幕では「農業のほうに~」となっていた。
これも自己規制ですか。
百姓も本来差別的な語じゃないのに。残念。