>以上がの例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、注ぎのささげ物を、食物のささげ物として、それぞれ定められた日にに献げなければならない。(レビ23:37)

 

>第一の月の十四日には夕暮れに過越のいけにえをに献げる。

この月の十五日はへの種なしパンの祭りである。七日間、あなたがたは種なしパンを食べる。(レビ23:5,6)

➡過ぎ越しの日に定められたささげ物は<交わりのいけにえ>といえる。

 

>あなたがたは、束を揺り動かすその日に、への全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊を献げる。(レビ23:12)

➡束を揺り動かす日に定められたささげ物は<全焼のささげ物>であることがわかる。

 

>あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。

七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物に献げる。

あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物としてのパンとして持って行く。これはへの初物である。

そのパンと一緒に、への全焼のささげ物として、傷のない一歳の雄の子羊七匹、若い雄牛一頭、雄羊二匹、また、への食物のささげ物、芳ばしい香りとして、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とを献げる。

また、雄やぎ一匹を罪のきよめのささげ物とし、一歳の雄の子羊二匹を交わりのいけにえとする。

祭司はこれら二匹の雄の子羊を、初穂のパンと一緒に、奉献物としての前で揺り動かす。これらはの聖なるものであり、祭司のものとなる。(レビ23:15−20)

➡37節に挙げられたささげ物のフルセットがささげられるのはシャブオートの日であることは注目に値する。

字義的、イスラエル史的には、

 

  出エジプト、荒野の彷徨、入植地カナンでの初収穫、神との婚姻契約

 

を覚えることであり、預言的には

 

  十字架での贖い、信者の聖別、キリストのよみがえり、ペンテコステ

 

を覚えることである。

ささげ物の違いは、

 

     神が人の側に求める関与の度合い

 

と見ることができよう。

 

>第七の月の一日はあなたがたの全き休みの日であり、角笛を吹き鳴らして記念する聖なる会合を開く。

あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。食物のささげ物をに献げなさい。(レビ23:25,26)

 

>特にこの第七の月の十日は宥めの日であり、あなたがたのために聖なる会合を開く。あなたがたは自らを戒め、食物のささげ物をに献げなければならない。(レビ23:27)

 

>この第七の月の十五日には、七日間にわたるの仮庵の祭りが始まる。

最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。

七日間、あなたがたは食物のささげ物をに献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物をに献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。(レビ23:34−36)

➡第七の月の3つの例祭では動物犠牲が書かれていないことに目を留めるべきである。

これらの例祭は預言的にはキリストの再臨、さばき、千年王国と目されており、

 

      最早動物犠牲を必要としない

 

ことを暗示していることを覚えたい。

 

しかしながら、実際に行われた第七の月の例祭では多くの動物犠牲が行われた。

これは、以下の教えに基づくものと考えられよう。

 

>第七の月には、その月の一日に聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。これを、あなたがたにとって角笛が吹き鳴らされる日としなければならない。

あなたがたは、次のものを献げよ。への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹。

それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパ、

七匹の子羊については、一匹につき十分の一エパ。

また、あなたがたのために宥めを行うには、罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。

これとは別に、新月祭の全焼のささげ物とその穀物のささげ物、常供の全焼のささげ物とその穀物のささげ物、および、それらに添える注ぎのささげ物、すなわち、規定による、への食物のささげ物、芳ばしい香り。(民29:1−6)

➡レビ記23章においては食物のささげ物だけであった「ラッパの例祭」ですらこれだけ多くの動物犠牲を求められるようになった。それはなぜだろうか?

 

 レビ記23章はエジプトを出た3ヶ月目に<主が、シナイ山でイスラエルの子らに向けてモーセに命じられた命令>(レビ27:34)である。

 一方民数記29章は翌年以降に定められた。

>エジプトの地を出て二年目の第一の月に、はシナイの荒野でモーセに告げられた。(民9:1)

>イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。(民20:1)

➡二年目の第一の月にはシナイの荒野にいたので、ツィンの荒野に入ったのは三年目の第一の月と考えられる。

 民数記11章から26章にわたって民の不信仰が記録されていることから、第7の月の例祭を実際に行う際に

 

    動物犠牲を通して罪と向き合うことを神は民に期待した

 

のではないだろうか。

 

預言が成就する時の仮庵の祭りの情景はゼカリヤ書で窺われる。

 

>エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍のである王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(ゼカリヤ14:16)

エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍のへの聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。(ゼカリヤ14:21)

➡動物犠牲は火で焼かれない。

 

       聖別された鍋で煮る

 

という未知の方法が暗示されている。