>「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄え(ヘセド חסדו h2617)はみな野の花のようだ。
主の息吹(ルーアッハ רוח h7307)がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
イザヤ書 40章 6〜7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
→「人は草のように儚く虚しい」ことが示され、神の言葉と対比されている。
その儚い<栄え>が自分の力によるものだとしたら、確かにそれは神の前には虚しいものだ。
しかしこの原語はヘセド( חסד h2617)なので、
人が立つことも草が生えることも神から来るもの
として捉えなければならない。
>草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
イザヤ書 40章 8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
→この聖句がこの文脈での中心、つまりこの文脈では
<神のことば>の永遠不変
を語っていたのだ。6〜7節だけ切り取って
生命の儚さを嘆く聖句
と捉えてはいけないのだ。
<「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。>(イザヤ書 40章 6節)
→人そのものには叫ぶべき言葉がないことが先ず挙げられ、
神のヘセドを受けて叫ぶことができる
と覚えたい。イエスはそれを<父の御霊>と証しした。
>人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
マタイの福音書 10章 19〜20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
>なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
マタイの福音書 6章 28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
<よく考えなさい>と言っても小学校の理科で習ったことを思い出しなさいということではない。当時そのような理科教育を受けてはいなかっただろうから。
彼らが持ち合わせていたとしたらトラーであり、野の花について語られたイザヤ書 40章 6〜7節が想起されるべきみことばだったのではないだろうか。
人生の不安に対して、
生きていること自体が神の許し、
神からのヘセドを受けている証拠
だと。
そして更に、何を叫ぶのか、ヘセドを受けている者として自省しよう。