サッカーW杯 アジア地区最終予選が開幕し、日本代表が7-0で中国代表に勝った。
カタールW杯以来、久しぶりのライブ観戦。
日本代表がまた強くなった!
あのカタールW杯で悔しい想いをした選手たちが益々強く逞しくなった。
ベルギー戦でPKを最初に蹴った南野選手について、本田圭佑さんがyoutube配信で語った言葉。
「あんな悔しい思いをしたら、4年間毎日死に物狂いでトレーニングできるでしょ」
南野が躍動している!
久保が逞しく凛々しくなっている!
みんな一段とスケールアップしている感じがした。
コーチ陣に長谷部誠さんが加わり、森保監督、名波コーチ、前田コーチ、下田コーチと現役の頃をよく知る方々で世界を知っている方々がいらっしゃるので本当に心強い。
ドキュメンタリー映画『ドーハ1993+』<サッカー日本代表 ドーハの悲劇>
サッカー日本代表1993年5月15日Jリーグが開幕した。それ以前のサッカー界は社会人サッカーが主流で、プロサッカーチームは読売クラブ(現在のヴェルディ)だけだった。
アジアでは韓国に勝てず、W杯には一度も出たことはない、
オリンピックは1968年メキシコオリンピックでの銅メダル以降は出場もできなかった。
低迷していた日本代表のレベルアップを図りつつ、地域スポーツを振興したいという思いから1993年のプロサッカーリーグ「Jリーグ」開幕が決定し、翌年6月に開催されるアメリカW杯に向けて、1992年5月ハンス・オフトが日本代表監督に就任した。
カズ、ラモス、中山、柱谷、北沢、井原、都並、高木、堀池、長谷川、松永、森保、都並などなど、当時のJリーグを牽引していたトップ選手たちが新しい扉を開いてくれることを期待していた。
1992年にアジアカップで初優勝。(今では考えられないかも知れないが、韓国や中東のチームが強く、日本はずっと弱かったのだ)
1993年4月8日~1993年5月7日に開催されたアジア一次予選を突破し、
1993年5月15日にJリーグ開幕。初めてのW杯出場の期待が更に高まっていた。
サッカー日本代表はアジア最終予選で善戦したが、1993年10月28日の最終戦イラクに勝たなければ出場できない状況だった。
最終戦のイラク戦・・・
2-1日本リードで迎えたロスタイム。イラクにコーナーキックから得点を決められ負けた。
「ドーハの悲劇」と呼ばれるこの試合。
たった数秒で悲願が目前で消え去った。
当時、国内のスタジオで解説を担当していた岡田武史は、アナウンサーにコメントを振られると、言葉を詰まらせ言葉にならなかったのを今でも覚えている。
あれからもう30年以上も経ったのだ。今、アラカン世代はドーハの悲劇を観ていた人たちも多いことだろう。
1つ1つの積み重ねがあって、30年経ってここまできたのだ。
当時はアジアのW杯出場枠は2か国。2週間で5試合。交代は1試合2人まで。最終予選は中東カタールで開催されるセントラル方式で、今とはかなり環境も違っていた。
また、Jリーグが開幕したばかりで、水・土の週2回の試合を選手たちはこなしていて、キャプテンの柱谷は肝炎に、DFの都並は骨折と疲労に悩んでいた。
当時を振り返ってのドキュメンタリー映画がyoutubeで配信されている。
日本代表の選手達にサポーターとして現地で共に戦った植田朝日が映画監督として選手たちにインタビュー。
当時、選手たちが感じていたこと。本音などが語られている。
ドーハの悲劇の時、解説者だった岡田武史がその後監督となりフランスW杯で初出場を達成し、
日本代表だった森保一が監督となって2023カタールW杯で指揮をとりベスト16になった。
日本のサッカーのレベルは格段にあがっていった。
しかし、こんな時代があった。
リアルで観戦していた当時を振り返り、当時の想いを思い出すことで、それから今までの道程の選手や関係者の努力と想いの深さに感動する。
<インタビュー>
- 柱谷哲二(キャプテン)
- 松永成立(ゴールキーパー)
- 長谷川健太(FW)
- 都並聡(DF)
- 北澤豪(MF)
- 高原直泰ードーハの悲劇当時は中学3年生。1994年9月U16優勝
- 安永聡太郎ードーハの悲劇当時は高校3年生。1995年ユースW杯の出場を決めた
- 李忠成ードーハの悲劇当時は小学2年生。2011年アジアカップ優勝
- 室谷成ードーハの悲劇当時は生まれていない。リオ五輪最終予選優勝
当時の日程を改めて見てみると、試合日程が過密なのがわかる。この間にJリーグを週2日にこなしていたのだから…。
Jリーグ開幕当初は、プロ野球は毎日やっているのにプロサッカーは週2日?という世間の声もあった。
あれから30年が経ち、サッカーは日本に着実に根付いている。
日程 | 試合名称 | 対戦相手 | スコア (左が日本) |
---|---|---|---|
1993年10月28日 | ワールドカップ アメリカ大会 最終予選 | イラク | 2-2 |
1993年10月25日 | ワールドカップ アメリカ大会 最終予選 | 韓国 | 1-0 |
1993年10月21日 | ワールドカップ アメリカ大会 最終予選 | 北朝鮮 | 3-0 |
1993年10月18日 | ワールドカップ アメリカ大会 最終予選 | イラン | 1-2 |
1993年10月15日 | ワールドカップ アメリカ大会 最終予選 | サウジアラビア | 0-0 |
1993年10月4日 | アフロアジア選手権 | コートジボワール | 1-0 |
1993年9月23日 | 国際親善試合(スペイン遠征) | へレス | 1-2 |
1993年9月21日 | 国際親善試合(スペイン遠征) | カディス | 1-2 |
1993年9月15日 | 国際親善試合(スペイン遠征) | ベティス | 0-2 |
1993年5月7日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | UAE | 1-1 |
1993年5月5日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | スリランカ | 6-0 |
1993年4月30日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | バングラデシュ | 4-1 |
1993年4月28日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | タイ | 1-0 |
1993年4月18日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | UAE | 2-0 |
1993年4月15日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | スリランカ | 5-0 |
1993年4月11日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | バングラデシュ | 8-0 |
1993年4月8日 | ワールドカップ アメリカ大会 アジア1次予選 | タイ | 1-0 |
1993年3月14日 | キリンカップ | アメリカ合衆国 | 3-1 |
1993年3月7日 | キリンカップ | ハンガリー | 0-1 |
1993年2月23日 | 国際親善試合(イタリア遠征) | レッチェ | 1-1 |
1993年2月20日 | 国際親善試合(イタリア遠征) | インテル | 0-3 |
1993年2月16日 | 国際親善試合(イタリア遠征) | ユベントス | 1-3 |
1992年11月8日 | アジアカップ 広島大会 | サウジアラビア | 1-0 |
1992年11月6日 | アジアカップ 広島大会 | 中国 | 3-2 |
1992年11月3日 | アジアカップ 広島大会 | イラン | 1-0 |
1992年11月1日 | アジアカップ 広島大会 | 北朝鮮 | 1-1 |
1992年10月30日 | アジアカップ 広島大会 | UAE | 0-0 |
1992年8月29日 | ダイナスティカップ | 韓国 | 2-2 (PK4-2) |
1992年8月26日 | ダイナスティカップ | 北朝鮮 | 4-1 |
1992年8月24日 | ダイナスティカップ | 中国 | 2-0 |
1992年8月22日 | ダイナスティカップ | 韓国 | 0-0 |
1992年6月7日 | キリンカップ | ウェールズ | 0-1 |
1992年5月31日 | キリンカップ | アルゼンチン | 0-1 |
キャプテン柱谷哲二&森保監督の相棒吉田光範登場!福田正博、北澤豪と一緒に30年前を振り返る
youtubeの「おじさんだけど遊んでもいいですか?」チャンネルで日本プロサッカーリーグが誕生したものの、まだまだ前途は多難でプロ組織が根付いて繫栄するには日本代表の活躍が必要だった。そのため、W杯に出場することを使命感として戦った選手たち。こんな時代もあったのだ。
【94年W杯裏話】森保監督がラモス瑠偉から「つまらない」と言われていた|柱谷&都並の故障から始まった超可変システム
【事件勃発】ラモス瑠偉の緊急搬送や西野朗と山本昌邦が銃を突きつけられた事件など、波瀾万丈だったドーハメンバーの思い出から驚愕のエピソードが飛び交う
【涙のロッカールーム】キャプテン柱谷哲二が抱えていた重圧|夢絶たれたロスタイムのコーナーキックを振り返る
【北澤豪 泣く】ドーハの悲劇のもう1つのストーリー。どうしてもW杯に出たかった理由とは。
カタールW杯と米W杯は森保が代表監督として、自分たちのパワーを引き継いでいってくれている感じがする。
森保のメンタルは、柱谷キャプテンとの同室を耐え抜いたことで生まれた?など。
今とは環境が違って昭和的なところもあるのだけれど、たった30年前のことだったりする。
時の流れというものは速くもあり遅くもある。