博研・14:ブラジルの独立
本国の戦火が去ったポルトガルは、リオ・デ・ジャネイロに置いていた暫定王朝を、1821年にリスボンに戻した。皇帝のドン・ジョアン六世は帰国したが、息子のドン・ペドロを残し、ブラジルの管理に当たらせた。ブラジルで生まれた住民が増え、ポルトガル本国に多大な利益を搾取される不満から、数々の反乱事件が起きていた時代だった。ドン・ペドロの重要な臣下に、鉱物学を専攻する博物学者のアンドラーダ・イ・シルバという政治家がいた。彼はポルトガル王子にブラジル独立を薦めた。独立活動を察知した王朝は、ドン・ペドロを反逆者とする決議を行った。それを知った王子は剣を抜き、1822年の9月7日イピランガの丘で「独立か死か!」と馬上で叫び、後にその日がブラジルの独立記念日となる。ブラジル王朝が始まり、ドン・ペドロが一世として即位した。
十八世紀末にフランス革命が起こり、国民が勝利した。共和主義の風がブラジルにもやってくる。民衆の支持が衰えたドン・ペドロ一世は、1831年に退位し当時5歳の息子をドン・ペドロ二世を即位させ、ポルトガルに戻った。ブラジルは、アンドラーダ・イ・シルバらの官僚が統治した。
ブラジル独立は、各地方の大統領府に協力を求める書状を送り、その同意を得る形で進められたが、最後まで渋ったのがアマゾン地方だった。ポルトガル本国からの移民が多かったからである。ブラジルが独立すると同時に反対派がこの地で革命を起こした。反乱は鎮圧されたが、ポルトガル系白人と有色人種たちの間に、深い反目を残した。1835年に知事の暗殺があり、大きな変事となる。続いて彼らの血みどろの殺し合いが始まった。有色人種軍はパラ(ベレン)を襲い、ポルトガル系白人の皆殺しを叫んだ。ブラジル政府は1836年にリオ・デ・ジャネイロから軍隊を派遣し、殲滅作戦を展開した。これを「カバナージェンの乱」と呼ぶ。有色人の反乱軍は、パラの砦を放棄して密林に逃げ込んだ。政府軍はそれを追い討ちし、その後の5年間で4万人もの残党たちを殺している。騒乱がほぼ沈静化されたのは1840年頃だった。
「カバナージェンの乱」は、当時のパラの人口の40%ものヒト(約10万人)が死んだ大惨劇だった。
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