祖母が亡くなった。
105歳老衰。
ブラボー👏
と思うのだが、
子である叔父からすると親の死は受け入れられないようだ。
「なんで、どうして?」と繰り返していたらしい。
死んだ時とさっきまで生きていたのと何が違うのか?ということかもしれない。
叔母は「(受け入れるためにも)葬儀というカタチは大切だね」と言った。
それにしても「死ぬ」については事務手続きや気を遣わないとならないことが多い。
服装について(タイツはNG。薄い透けるストッキングを履く。2月の寒い時に?)
返礼について(お花・お金を頂いた時は何分の1を返す)
包む金額(友人や知り合いの場合は失礼にあたるので多く包んではならない、親戚の場合はいくら)
だとか…
宗派や葬儀の内容でも違うのだろうけど、手順がわからずオロオロしたり…
葬儀は経験がないにも関わらず、常識的な動きが必要だったりする。
常識を持ち合わせていない私にとっては、何とも戦力外でトンチンカンだっただろう。(とはいえ、無関心・開き直りもできない性格なので振り返って反省するわけだが💧)
ただ気持ちだけで葬儀に参列するというわけにもいかないわけだ。
幸いにも叔母が事務手続きが得意で、テキパキと仕切ってくれたのでありがたかった。
老老介護の世(喪主・子どもが杖をついている)、
親戚・子どもたちが少ない、
事務手続きが得意でない、
悲しみの多い死だとしたら、
こんなことできるんだろうか?
死んだあとも、いつまでにどういうことをやらなければならないとか…
生きることも大変で、死ぬことも大変。
正直、お金も相当かかる。
生きるということ・死ぬということの考え方を多くの人が共通認識として変わらない限り、お金をかけて場を作っていくカタチは変えずらいのだろうな。
もっと生きること・死ぬことをシンプルにならないのだろうか…
ただただ、起きていることを受けいれるために使う時間も必要だろうと思うのに。
受け入れるというカタチ・弔いの気持ちとして葬儀が必要な人もいるのかもしれないが、
私の時には(違法にならない程度に)お金をかけず、悲しんでも欲しくない。
魂は次に進むことを選択したという考え方だから。多くの人が死も魂が選択したということを知っていたら、叔父さんの気持ちも葬儀というカタチも変わっていくのだろうか…。
話は変わるが、祖母が死んだ時も葬儀でも祖母の魂をあまり感じなかった。
話をしてみたかったけど。
認知症もあったので、もう既にあの世と行き来しており準備万端で未練がないのかもしれない。
葬儀の日は、2月にしてはとても暖かく雲一つない晴天が祖母の前向きさを表していた。
火葬場が混んでいて10日ほど待ったのだが、すんなりいけば大雪の日だったかもしれない。杖をつく高齢の子供たちにとっては本当に幸いだ。
晴天で清々しい日を葬儀に選んだ祖母。
生前もこれを言われたい人だったから言いたいのだが、
「おばあちゃん、すごい!」