麻雀とか・・・
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強さとうまさ

強さと技術は認められ方が違う。


強さを認められることは必要である。

相手に対して有利なイメージを与え、

それだけで相手の選択に制限を与えられる。


ところが、技術を認められると言うことは必要条件ではない。

技術を認められるというのは、

判断者と打ち手の質の差が近いと言うことであると思うからだ。


判断基準を例にとって考えてみる。

強さの判断基準とは、

「結果」

であると思う。

これは数字にそのままであるため、

誰が判断者であってもそれほど大きな違いはないであろう。

(結果の単位、算出方法で異なるケースがあるかもしれないが)


技術の判断基準とは、

「過程」

であると思っている。

これは判断者の基準によって評価が分かれる場面であると思う。

前に出ることを基本としているものが判断者であれば、

回って進むものに対して、

・踏み込みが甘い

・臆病

・読みが甘い

と見るかも知れないし、逆のパターンであれば、

・無謀

・結果としてたまたまうまく行ったかもしれないけど

・意味のない前進

と見るかもしれない。


結局、絶対評価のない部分については、

自分のものさしと比べるしかないので、

自分とどれくらい似ているかの目安にしかならないのであると思う。









負の部分

期待値はプラスに限らないと思う。


デジタル派の思考で、

公式に負の期待値を追求した本・発言を見たことがない。


これを選択すれば、和了期待値はこの程度であるから最善である。

デジタル派の基本書式ともいえる形式であるが、

このとき、選択結果が他者に与える影響への言及は一切ない。


例えば中盤以降でドラ(場に1枚目)を手放したとき、

他者の反応はその時点を境に変わるであろう。

ところが、その部分には一切言及せず、

出る牌は常に同じ手あることを前提としている。

また、鳴かれることによって他者の手の進行や、

効率の上昇についても言及はない。


祝儀に関しても同様である。

祝儀獲得のための鳴き(及び、鳴かれること)についての言及はない。


思うに、デジタル派のマジョリティを占めているのは、

「放縦にリスクの少ない」

人なのではないだろうか。

プライド、金銭がある程度以上に影響される麻雀では真っ先に考えて当然の部分が、

デジタルはからはほとんど聞かれない。


打ち手の立場と言うことについても、

言及されることはない。

例えば、店側の最大の目標は、

「お客さんからゲーム代を得る」

行為であると思っている。

その観点で見たときに、

店側が客から2副露1000点のアガラスなどを行う行為が

客側にどうのような心理影響を与えるかを考えたことがあるのであろうか?


そういう意味においてデジタルはまだ完成には程遠い思考であると思うし、

また、あまりにも偏った思考であると思う










最悪クラスの本

久しぶりに酷い麻雀本を読んだ。


「デジタル麻雀最前線」

と言う本だ。

これは本当に酷かった。


直近に出会った本の中で酷いと思ったものが、

「プロ麻雀魂 其の三 不敗の型」

と言うものであったが、

この本の酷さは、

・内容の古さ

・赤を完全に無視

と言う部分の、いわば出版時期の問題であったことに対し、

前述の本は、

・根本としている前提自体がおかしい

と言うものである。


詳細点については言及しないが、

(と言うより、ほぼすべてがおかしい)

とにかく、実践すればするほど酷い結果となることが想定できる。


各内容の文責に名前がなく、

すべてが協会名義となっている。


書いた内容に責任を持たないと、

こんなに酷いことになってしまうのか・・・









三色

三色は昔は花形手役であった。


三色が花形でなくなってから久しい。

嘗ては手役作りの目標(花形)であり、

時代の変遷とともに結果としてできる手役と認識されるようになった。


理由は勿論ルールの変化である。

即・裏・ノーテン罰符のない頃の競技ルールにおいて、

ある程度の点数を期待でき、

また作りやすい手役として最も活用されたものが三色であった。


この条件下において、

満貫を基本としたときに目標とする手役として三色は最適であろう。

他の役との複合性、受けの広さで他の方向性よりもはるかに勝る。


ところが時代が進むとともに、

1局の平均移動得点が上昇した。

(即・裏・赤・ノーテン罰符・積み棒・ウマ)

そのため、1回の高い手を決め手にする競争から、

数で積み重ねる競争へと基本目標が変化した。


和了回数が中心になることは、

相対的に手役の価値の低下を招く。

満貫以上の得点表はそれ以下と比べて効率が悪いのであるから、

それ以上の点数は基本的には不要である。

(勿論、点数を落とす必要はないが)

だから三色も、基本目標手役ではなくなってしまった。


しかし現在の東風戦において、

三色は意外と活躍をすると思っている。

東風戦の基本は赤は副露しても祝儀となり、

祝儀額比率は結構高い。

そのため、手牌は必然的に多種の色を持つ形となる。


その場面で三色が役に立つと思っている。

つまり、赤々・あるいは赤ドラの形を8000にするために活用すると言う手段だ。


仕掛けの基本手役はタンヤオであり役牌である。

このとき、赤々・赤ドラでは3900となるのが通常だ。

ところが今の東風で3900は2着以上の安定点数ではない。

最低8000の和了はしておきたい。

そこで三色を狙うと言うわけなのだ。

(従って、三色は鳴いて作ることを前提に考える)


このメリットは、途中で引いてきた赤の入れ替えがスムーズにできることであろう。

東風最大の目標ともいえる祝儀拾いが無理なく実行できることは、

見た目以上に大きなアドバンテージになると思っている。


・・・・・・あとは、そういう場面できっちりと赤を引いてこれるかどうかだ。






金銭への固執

人に貸したお金はなるべく忘れるようにしていた。


数年前までは、

人に貸したお金は捨てたと同じようなものであると割り切ることができた。

だから、貸すときというのは、

「そのお金が戻ってくるかどうか?」

ではなく、

「ここでこの金額を放棄する余裕があるかどうか?」

が判断基準となっていた。


ところが今はそれができない。

戻ってくることを前提に貸してしまう。


ここ数年で、金銭に対する感覚が変わった。

放蕩から堅実と言うわけではないのだが、

小さい金銭に対して管理したくなるようになったのだ。


別段管理したからと言って何かに役立てようとは思っていない。

それどころか、ある一定上の金額に対しては結構ルーズな面もある。

きっかけがあったわけでもない。


体調の変化と関係があるのであろうか?

ここ数年、体調の不良・体力の衰退を感じるようになった。

食べるものについては健康志向が昔からあったため、

その部分での不調ではないのだが、

睡眠不足や体内時間の乱れに起因する現象が意識できる。


漠然とであるが、

不安を感じるようになってくると目先の金銭に固執してしまうようになるのであろうか・・・







勝率

調子と言うものは、人によってその捕らえられ方が異なる。


羽生が竜王戦でまた負けた。

これで今期も本戦には参加できない。

朝日の2局目も負けた。

しかし棋聖戦では挑決へ残っている。


これを見て

「羽生の不調」

と呼ぶのはあながち間違いではないと思う。

羽生クラスとなると、本戦の準決レベルの位置に出ることが当然であるという認識が皆にあるからである。

しかしこれがC2クラスの棋士になると、

これらの位置に行くだけで絶好調と認識される。


好不調とは、本人と周囲ではその認識が異なる。

もしかしたら羽生は不調とは思っていないのかもしれない。

年度勝率6割超で不調と言われるのであるから、

負ける位置で好不調をとやかく言われるのだ。


勝率と言うものは単純に考えると面白いものである。

6割と7割の違いは、

「10戦して1勝分」

しかない。

将棋で考えると2~3ヶ月に1回の勝ち負けの差でしかないのだ。

麻雀の勝率(トップ率)で考えても、

半荘10回で1回の着順の違いでしかないのだ。


積み重ねた結果での勝率は、意外なほど中央に偏る。

将棋会で通算勝率7割越えは4人しかいないし、

麻雀でトップ率3割は数えるほどしかいないであろう。

(マルチ・猛打賞の言葉をよく聞く野球においても、4割の打率はほとんどでない)


勝率と言うものは、維持することが非常に難しい。

長期的に見てみると、

徐々に下がることはあっても、

徐々に上がり続けることはまずない。


勝率維持のコツは、

「勝ちに行かないこと」

であると聞いたことがある。

勿論、勝たないと勝率は上がらない。

逆説ではあるが、

「負けないことを選択する」

ことを第一に考えることが必要なのである。


負けないので結果として勝てる。

これを積み重ねることによって勝率を維持できるのだ。


谷川浩司はこれまでに数多く挑戦者として舞台に上がってきた。

しかし、防衛戦にはなかなか勝てない。

「高速の寄せ」

と言われる棋風のためではないかと考えている。

谷川の主体は「攻め」であって、

「勝つ」ことを目的としているのである。

勢いを持って上り詰めることは可能であるが、

上り詰めるとそこを維持することが得意ではない。

永世名人も、2-2-1と言う5期での獲得となっている。

(他の永世名人は皆5期連続獲得)


今の獲得タイトル数が活躍に比べて少ない(20数期)のも、

このためであろう。


攻めることは確かに必要であるが、

維持することを目的とするのであれば、

「負けないこと」(守ること)

がより重要になるではないか。


「攻撃は最大の防御」ではなく、

「防御は最大の攻撃」なのだ。










調子の波

長期的な調子は存在する。


麻雀の調子を長期的スパンで見た場合、

どの程度の期間を1単位と見ればいいのか?


個人的には1年間と言うものが単位として最長ではないかと思う。

勿論それ以上の期間で見ることに異論はないが、

それ以上の期間で考えることは、

結構無駄なことなのではないかと思うからだ。


調子と言うものについて、

突然訪れるものなのか、

徐々に変化するものなのかと言う考え方は、

どちらが正しいと断言することはできない。

このあたりは個人の意識の分野であろう。


個人的にはあるきっかけを境として、

その方向が変わるものであると思っている。

だからスパンを1年で考える。

振り返って、どこが境であったのかを確認できる最長期間であると思うからだ。


より意識を強く持ち、記憶力が確かであるのならば、

この期間を長くすることは可能であろう。

しかし、これ以上の長期に意味はないと思っているので、

あえて伸ばそうとは思っていない。


先を見るために後ろを確認する。

それは必要な作業であると思う。

後は、後ろから得たものをどうやって先へと生かすかなのである。

そしてそれは、感情ではなく理性の分野であるのだ。


・・・・・・・・・・正直、これができない。










全自動卓の改良

麻雀はある時期を過ぎると自宅ではほぼできなくなる。


全自動卓に慣れてしまうと、

なかなか手積みには戻れない。

ところが全自動卓は高価なものである。


近年の自動卓の進化には目覚しいものがある。

ただ、裏を返せば1つの卓の流行(寿命)が短くなっていると言うことである。

そのため、各店においても自動卓の交換が結構な負担を強いるようになった。


ただ、基本仕様は変わっていない。

磁石により裏表を区別させた牌を卓内で撹拌し、

壁牌を作り上げるという作業を実行するのが基本仕様だ。

変更点は、撹拌方法であったり、

中央の表示部分であったり、

点数表示機能等の周囲の部分の進化(改良)が行われてきた。


アルティマという卓が近頃出回っている。

自動に配牌を生成する機能が付加された全自動卓だ。

自動配牌生成機能を持った卓と言うのは、

十数年前にも発表されたが、

普及にはいたらなかった。

(点数計算機能卓というのも嘗ては存在しいていた)


当時普及しなかった原因は、

「配牌をとらない麻雀に慣れていない」

と言うことが最大の要因であると思われる。


ところが現在はネット麻雀の流行のため、

配牌が最初から存在していることに疑問を抱かない者が存在するようになった。

そのためにアルティマはその世代をターゲットとした店において、

すんなりと受け入れられるようになったのである。


また、この普及想定外ともいえる世代に普及した。

それは老年世代への普及である。

ネット世代への普及である程度の市民権を得たため、

アルティマの存在が完全に異世界の存在ではなくなったため、

老年世代がその便利さに対して拒絶以外の選択肢をもてるようになったのだ。


アルティマ形式が天下を取ることができるかはわからないが、

ひとつの形式として保持し続けることは可能なのではないかと思う。


問題は、打ち手の非アルティマ→アルティマの移行に慣れることよりも、

アルティマ→非アルティマの移行に慣れる事のほうが難しいことと、

中心世代の生理的反発の部分にあると思う。





風邪を引いた

風邪が治らない・・・・


面白いくらいに風邪が治らない。

とりあえず薬を飲んでみるのだが、

当然のように効かない。

自分の咳のために寝ることも大変である。

ところがこういうときに限って仕事が忙しいので、

休むこともできない。


楽なときと忙しいときの差がありすぎる。

仕事も当然のように進捗が捗々しくない。

とりあえず進めてみるのだが、

本当にとりあえずなので目標が見えない。


いっそのこと投げっぱなしにしてしまえばいいのであるが、

性格的にそれもできない。

それで結局立ち止まってしまう。


そんなときでも時間は流れ続ける・・・・・







毎日

周囲と同じ時間に駅に着き、会社に着く。

終わるのは夜遅い。


単調な生活と言い換えてもいいかもしれない。

この生活に不満があるわけではないが、

別段満足していると言うわけでもない。

ただ流されているだけのような気がしている。


「平凡とは最高級の安全であり、幸福である」

間違いはないと思う。

但し、

「その幸福の代償として好奇心と興味が失われる」

と言う言葉の追加は必要となるであろう。


忙しいことを喜べる。

これは幸せなのであろうか?

後のことを気にせずに遊ぶ。

これはどうなのだろう。


結局人はどこかで苦労をしてどこかで楽しむ権利があるのだ。

その権利をどこで行使するかは、その人の選択なのであろう。


・・・・・・結局、楽しむ権利すら流されてしまう。














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