四天王寺の石造物ほか(大阪市天王寺区) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

昨日は四天王寺の四石の紹介をしましたが、今日はその他の石造物を少し紹介したいと思います。
 
四天王寺には丸池という亀がいっぱいいる池があります。
 
この池には主とも言うべき大きなスッポンがいて、いつも天気のいい日には他のミシシッピアカミミガメに混ざって甲羅干しをしています。

 
その丸池のそばの釈迦如来の石仏の近くに
 
仏足石があります。
石の具合から相当年期が入っているのが窺えます。
 
次に中心伽藍の東門あたりにこのようなものがあります。
 
白鳳時代の排水溝だそうです。
地下にはかなりの史跡が眠っていそうですね。
 
月に一度しか開門しない太子殿もこの日は開門してました。
 
太子殿
 
太子殿右手から奥にちょっと見たいものがありましたので進みます。
 
それが物部守屋の祠
太子殿西側から回り込めそうですけど、工事のためか通行できなくなってましたので、ここから参拝しました。
 
意外でしょ?四天王寺に守屋が祀られてるんですよ。
 
もちろん御霊の鎮魂のためなのもあるのでしょうけど、なんか守護神にしているようにも思えます。
 
昨日の記事の最後に聖徳太子は寺院として四天王寺を建立していないようなこと書きましたが、そのあたり少し書きますね。
 
聖徳太子や蘇我氏と物部守屋一族の争いは、仏教VS神道のように言われますけど、そんな単純なものではなかったのではと考えるようになりました。
 
宗教という言い方をするなら、蘇我氏も物部氏も同じ宗教だったと思います。
 
それまでの日本古来信仰とでも命名しておきます。
 
そこに異国の仏教というものが伝来します。
 
それを受け入れるか否かを争っていたということなんです。

そんなの知ってるわと言わず、もう少し聞いてくださいね。
 
受け入れる側の蘇我氏にしても日本古来の信仰ありきだったと思います。
 
現在でいうなら同じ宗旨であっても派閥が分かれているようなものかと思います。
 
宗教観としては同じだったと思います。
 
なので蘇我氏側が勝利しても日本古来の信仰を捨ててはいないはずなんです。
 
外国の神仏も加わっただけとでも言いましょうか。
 
飛鳥寺などは仏教寺院として建立されていますが、四天王寺は寺院ではなく仏教建築を取り入れた神社のようなものであったと思えてなりません。
 
四天王などの天部などは、仏というより神のような存在だったでしょうから。

現在の神社建築は仏教寺院の影響を受けたものであるのは周知の通りです。
 
後に仏教寺院が力を持ってきて、聖徳太子を日本仏教の始祖のような存在にまつりあげたことにより、聖徳太子=仏教のようなイメージになってしまったのではないかと考えます。
 
今日の尼津彦ワールドは、聖徳太子は現在の神社の元になるものも作り、大いに影響を与えているということでまとめたいと思います。
 
 
さて、石造物の話に戻ります。
 
宝物館の前にも石造物があります。
 
長持形石棺蓋
現在の茶臼山付近から出土し、四天王寺境内に移されたそうです。
 
古墳の石棺の蓋であると判明したのは明治時代で、それまでは蛙石とか巻物石とか呼ばれていたそうです。

古墳というものの存在が知られていなかったとしたら、明日香に点在するものと同様に奇石として見られるのは当然のことかと思います。
 
石鳥居の笠石
西門の鳥居が木造から石造に作り替えられた時代のものと言われています。
 
鳥居の名称としては笠木といいますが、石製なので笠石とは、当然といえば当然の呼び名ですね。
 
東門に向かいまして 
 
おまけとして、四天王寺で一番きれいな亀遊嶋辨才天
 
これにて四天王寺は終了です。
 
ここから東門を出て、いくつか神社回っていきました。