イギリスで結成された、ハードロック、ヘヴィメタルの先駆け的バンド、ディープ・パープルです。



もともとはクリス・カーティスというヴォーカリストが、ジョン・ロードやリッチー・ブラックモアに声をかけ、ラウンドアバウトというバンドを結成する予定でしたが、リーダーのクリス・カーティスがバンドを放棄し行方知れずになっため、残ったメンバーでバンドを継続。
1968年に、バンド名をディープ・パープルに改名しデビュー。
バンド名の由来は、リッチー・ブラックモアの祖母が好んで聞いていたピアノ曲のタイトルから付けられました。
デビュー当初のメンバーは、ジョン・ロード(キーボード)、リッチー・ブラックモア(ギター)、イアン・ペイス(ドラムス)、ニック・シンパー(ベース)、ロッド・エヴァンス(ヴォーカル)の5人で、ファーストアルバムからシングル・カットされた「ハッシュ」がヒットし、ビルボード・チャートで4位となりました。
このメンバーで3枚のアルバムを出しますが、バンド内で意見が対立するようになり、ニック・シンパーとロッド・エヴァンスが脱退します。
脱退した2人の代わりに、イアン・ギラン(ヴォーカル)とロジャー・グローヴァー(ベース)が加入。
この時のメンバー構成が、後に黄金期と言われるようになります。
この頃、アメリカではレッド・ツェッペリンが注目され、リッチー・ブラックモアはこれを意識して、よりハードなサウンドを求めるようになります。
1970年に発売した新作アルバムは、イギリスチャート4位になり、シングルは2位を獲得します。
日本でもヒットしますが、アメリカでは低迷しました。
以後、ディープ・パープルはハードロック・バンドとして活動。
1971年に発売した、ハードロックとしては第2弾となるアルバムが、イギリスで1位を獲得。
同年12月、次のアルバムを製作するため、ディープ・パープルのメンバーはスイスのジェネバ湖畔のカジノを訪れていましたが、そのカジノで火災が発生。
湖上に煙が立ち込める様子を見ていたイアン・ギランが、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」と呟き、この言葉がメンバーの耳に残り、リッチー・ブラックモアの作ったギターリフから曲へと発展し、名曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が誕生しました。
そして、名アルバム「マシン・ヘッド」が完成。世界中でヒットしました。
1972年に来日し、日本でのコンサートを録音したライヴ・アルバムを日本限定で発売しますが、できの良さから海外でも発売されプラチナ・ディスクを獲得しました。
ですが、この後から低迷しだし、バンド内でも対立が生まれ、イアン・ギランとロジャー・グローヴァーが脱退。
新しいメンバーとして、グレン・ヒューズ(ベース)が加入。
ヴォーカルは一般から募集し、4000人の応募者の中から、当時無名だったデイヴィッド・カヴァーデイルが選ばれました。
1974年に新メンバーで初となるアルバム「紫の炎」がヒットし、バンドの人気は回復します。
しかし、ディープ・パープルにソウルなどの新しい要素を取り入れようとする新メンバーとリッチー・ブラックモアが対立。
リッチー・ブラックモアは脱退し、レインボーという新バンドを結成します。
その後もバンド内でのもめ事が続き、1976年に解散が発表されました。
1984年、ディープ・パープルは黄金期メンバーで8年ぶりに再結成します。
この頃、世界中でヘヴィメタルやハードロックのブームの最中で、ディープ・パープルの再結成は、その元祖的バンドの復活として話題となりました。
ですが、やはりバンド内の対立は絶えず起こり、メンバーチェンジを繰り返しながら現在もバンドの活動は続けています。

ディープ・パープルは、好きな曲も多いし、やはり名曲も多いので、押さえておかないとという感じでCD買いました。

メンバーチェンジの多いバンドですが、ヴォーカルはイアン・ギランかデイヴィッド・カヴァーデイルの時が良いですね。
ギターは、リッチー・ブラックモアじゃないとって感じです。

リッチー・ブラックモアの「ハイウェイスター」や「紫の炎」で見られる速弾きテクニックと、イアン・ギランの高音シャウトは、後続のバンドに影響を与え、ヘヴィメタルの定番テクニックとなっていきました。

リッチー・ブラックモアのギターの音はクラシックの影響を受けていて、バッハなどのコード進行を取り入れています。

ハードロックやヘヴィメタルの定番ギターとして、ストラトキャスターを印象付けたのもリッチー・ブラックモですね。