千葉市緑区土気町にある、高齢者専用賃貸住宅ひまわりの郷の横に、クラン坂と呼ばれる切通しの細い坂道があります。

クラン坂という名前の由来は暗闇坂が訛ったもので、夏の昼間でもうす暗い坂道です。

この辺りは昔、土気城の在った場所で、ひまわりの郷は城址跡に建っています。

クラン坂は、もとは土気城の空堀で、防御時に戦略的役割をしたり、通路として使われていたそうです。

土気城は、もとは平安時代(770年頃)に鎮守府将軍であった大野東人が築いた貴船城であるといわれています。

鎌倉時代になり、千葉氏の勢力下となり、千葉氏の流れを汲む土気氏の居城となり、土気城となりました。

室町時代には畠山重康の居城となりますが、酒井定隆に攻略され、以降100年以上の間、酒井氏の一族の居城となりました。

土気城は難攻不落の城と言われました。
その真価を発揮したのが1565年の北条氏傘下の軍勢との戦いです。
もとは北条氏側に組みしていた酒井氏でしたが、第二次国府台合戦で里見氏側に組みしたため、北条氏から報復をうけます。
北条氏傘下の生実・臼井・東金などの軍勢に攻め込まれますが、既に軍事力を無くしていた里見氏側からは援軍は来ませんでした。
絶体絶命で敗北も時間の問題と思われた土気城・酒井氏でしたが、上手く地形を活かした戦術で北条勢を撃退。

北条勢を撃退した、戦の場となったのがクラン坂です。
北条氏の軍勢も、狭いクラン坂では身動きが取りにくく、一機に大軍で攻めることはできません。
地の利を活かせる酒井氏の軍なら、対等の戦いに持ち込めたのでしょう。
それと、切通しの壁に囲まれたクラン坂では、上方から弓矢で一斉射撃されたら退路も狭くひとたまりもありません。
酒井氏は、クラン坂の地形を上手く利用し、北条勢の大軍を撃退しました。

現在、クラン坂の地面は舗装されていますが、殆んど車や人が通らず、日が当たらないため舗装に苔がはえ、いつも湿っていて滑りやすいです。

薄暗く不気味なクラン坂ですが、ここで数多くの兵達が戦死したと思うと、さらに良い雰囲気になりますね。