戦国日本 VS 白人列強 
〜英雄・豊臣秀吉で読み解く
日本が植民地にならなかった理由

秀吉の朝鮮出兵は
「世界の植民地化をめざす
イベリア両国(スペイン&ポルトガル)
に対する東洋からの反抗と挑戦」
だったと言えそうです。

ここで知っておかないといけないのが
当時の世界情勢です。

簡単に言うと、
多くの有色人種が白人によって
迫害されていたということです。

植民地にされたとしても、現地の人々が
幸せに暮らせていたらまだ良いのですが、
そうではなく、
とても酷い扱いを受けていました。

その始まりは、
アメリカ大陸からでした。

一四九二(明応元)年、
イタリア人のコロンブスが、
スペイン女王の援助を受け、
大西洋を横断して
西インド諸島に到達しました。
コロンブスはアメリカ大陸に
4回航海しています。

先住民(ネイティブ・アメリカン)に対する、
白人たちの信じがたいほどの殺戮と暴虐、
そして搾取と奴隷化の地獄絵図が
くり広げられました。

右差しここで思い出したことを言うと…
実は私の前世もしくは
同じハイヤーセルフの魂の兄弟姉妹に、
インカ帝国にいた人がいるんです。
しかも、インカ帝国が滅びる
(スペイン人から皇帝が処刑される)
場面にいました。

「クスコ」の曲を
20代の頃によくCDで聴いていて、
最近ふっと思い出し、
YouTubeで聴いていたら、
涙がボロボロ出てきて、
大泣きしてしまいました😭💦

インカ帝国の人々がスペイン人と戦って…
最終的に皇帝が処刑される…
という様な映像が音楽と共に流れていて…
その曲名も「The Last Inca」

私はこの皇帝の近くにいて
私にとってとても大切な方だったことが
ハッキリと分かりましたキラキラ

それから、小さい頃から何故だか
アンデス山脈にとても魅かれていて…
それも「こういうことだったのかキラキラ電球!!
と、今頃分かりました🥹ラブラブ

どうやら私は、太古の昔
(まだ地球の波動が高かった時代)は
地球をどんどんディセンションさせていく
立場でしたが、
近現代(波動が低くなっちゃった頃)では、
やられる側が多いのかな😅💦

話を本題に戻します。

アメリカの先住民の無数の王国が、
実は消滅させられていることを、
特に私たち日本人は、
知っておくといいかな…とも感じました。
その理由は…
アメリカの先住民と、私たち日本人は、
どうやら遺伝子的にも、
近い関係にある様だからです。
性質や思想にも
共通する部分があるみたいです。


そして、イベリア勢力は
世界中の有色人種の国々を
次々と植民地にしていきます。

そのうち、
イベリア勢力(スペイン&ポルトガル)の
両国の間で、侵略と掠奪の
“競争”がはじまります。

すると、
ローマ教皇がその争いの仲裁に乗り出します。
「虐殺と掠奪をやめろ」と言うのではなく
「仲よく山わけにしなさい」と言うのです。

ビックリですね😅💦

それでは、日本は?
下矢印下矢印下矢印
『極めて長いスパンで見ると
ポルトガル人が種子島に漂着してから、
 大東亜戦争のあとの日本占領が終わるまでの
四百九年間...、
日本はずっと「白人諸国」と戦っていた...
と見ることもできるわけです。
私はその長い戦いを
「大東亜四百年戦争」と名づけたい、
と思っています。 』
と、松浦光修(まつうらみつのぶ)先生
仰っています。

松浦光修先生は現在
皇學館大学文学部の教授で
思想史・歴史学者です。

私は3年前、「大東亜戦争の大嘘」という
藤井厳喜先生が書かれた本からスタートして、近現代史を色々とお勉強させて頂きました。

ちょうど戦後70年以上経っていることもあり、公文書が解禁されてもいましたので、
西鋭夫(にしとしお)先生がスタンフォード大学フーバー研究所に眠っていた日本に関わる公文書(情報)もどんどん公開して下さっていたり、

林千勝先生
表からは決して見えない
裏で繰り広げられている世界を
お金の流れから紐解かれて、
国際金融資本によって仕組まれた
世界の支配構造
世界で起こっている戦争の仕掛け方などを
事実(証拠)をもとに一つ一つ丁寧に
ご説明して下さり、
そしてその支配構造の根源となっている
ロスチャイルドの起源にまで
追っていかれてて、
「裏世界史」を丸見えにして下さっていたり…

田中英道先生
フランスやイタリアの美術史を
研究しているうちに
養われた審美眼によって、
古文書や文献には残っていないものを
美術品や遺跡から
当時の情勢や人々の想いなども
読み解かれていって、
日本の文化や歴史の重要性を
ご紹介して下さっています。
歴史家にもなられていって、
日本国史学会の代表を務めておられます。
 
その他、様々な大先生方が
長年研究されていたからこそ読み解ける
貴重な情報を公開して下さっているお陰で、
地球で起こった出来事
あらゆる角度(裏側も)から
覗かせて頂けました。

その見える景色といったら
驚くものばかりでキラキラ目キラキラ雷

音符ピンク音符ルンルン音符ピンク音符ルンルン音符ピンク音符ルンルン

興味の向く方向へと
次々と進み続けました🏃‍♀️💨

それから、
世界を見る目が変わってきましたスターキラキラ
今まで私は一体、
何を見ていたのか😱!
ですよ…。

そして
どんどん遡って行き、
神代の時代
そして…
宇宙まで飛んでいきました💥☄️🚀キラキラ

地球で起こっていることは
地球人だけでつくっているわけではなく、
地球人の起源も多くの宇宙人や神々が
深く関係していますし…

そして私が地球に降り立つ前、
つまり、私の起源(魂)まで遡り…

あ、ちょっと話が外れてきたので
本題に戻りますね…。

それでは、「大東亜四百年戦争」の
「戦争目的とは何か?」と問われれば、
それはいうまでもなく
➡︎①日本の自由と独立を守ること...、
➡︎②アジアの人々をはじめとする
世界の有色人種を、白人諸国の支配から
開放すること…
です。

現に大東亜戦争ののち、
アジアのみならず、 
世界各地の有色人種に対する
白人諸国の植民地支配はほぼ終わり、
ほとんどの有色人種は、 
自分たちの独立国家を
もてるようになりました。

ですから、結果的に
「大東亜四百年戦争」に よって、
世界の有色人種は「開放」された
ともいえるわけです。

さらにいえば、
一九五〇 年代から六〇年代にかけての
アメリカの「公民権運動」も、
その流れの中に位置づけられます。
※「公民権運動」とはアメリカ合衆国の黒人(アフリカ系アメリカ人)が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆的な社会運動です。


それでは秀吉の話を始めます。

秀吉の朝鮮出兵は、
イベリア勢力に衝撃を与えました。

それまでは
『日本などわが軍事力で一ひねり』
という勢いだったイベリア勢力は、
むしろ、日本の軍事力に
恐れをいだくようなります。

平川新さんは、
「秀吉による朝鮮出兵は…
世界最強を自負するスペイン人の心胆を
寒からしめる効果を発揮していた
と言われています。

そして、その後の「鎖国政策」
二百年以上もつらぬいていますが、
それは、国を“閉ざしていた”と表現するよりも、外国の侵入を“跳ね返していた”、
あるいは“ブロックしていた”
…と表現した方が、
歴史の実態により近いのではないかと
感じます。

秀吉は、はじめはキリスト教に対して、
あまり敵意を抱いていなかったのですが、
危険性がハッキリと分かった時点で
「バテレン追放令」を発令したのです。

下矢印下矢印下矢印

筥崎に二十日ほど滞在していた時に
「バテレン追放令」は発せられました。
それまで秀吉は、キリスト教に対して、
きわめて寛容でした。

日本人のキリシタンに対して、
「キリスト教に、一夫一婦の戒律さえなければ、私もキリスト教徒になったであろうに...」
などという冗談を言った、
ともいわれています。

そのような秀吉を、
スペイン人やポルトガル人たちは、
たぶん「組しやすし」と見ていたに
ちがいありません。

ところが秀吉は、
九州で噂で聞いている以上の、
キリシタンの悪行を知ることになります。

 秀吉に仕え、
ともに九州におもむいていた大村由己は
その様子を手紙にこう書き残しています。
「五島、平戸、長崎などでは、南蛮船が着くごとに、その国の領主を信者にし、さまざまな信仰の者を、自分の宗派に引き入れ、それだけではなく、日本人を数百人、男女は関係なく、黒船に買い取って、手足に鉄の鎖をつけ、船底に押入れ、地獄の苦しみを与えています」(徳富 蘇峰『近世日本国民史』豊臣氏時代・乙編)

また、マドリッドの「歴史学士院」に残されている史料にも、日本人の奴隷のことが書き残されています。内容は、こういうものです。
「ポルトガルの商人は、…」
すみません、これ以上はあまりにも酷すぎて
読むに堪えない(心が苦しくなる)ので、
ここでは控えますね😅💦

キリスト教の宣教師たちと奴隷商人たちが
“グル”だった証拠

下矢印下矢印下矢印

 天正十(一五八二)年、
ヴァリニャーニ(日本に訪れていたイエズス会の会員)の提案で、四人の少年がローマに派遣された「天正遣欧使節」。
少年たちは、マラッカ、ゴアを経て、
喜望峰を回り、
ポル トガルのリスボンに入るのですが、
行く先々で、日本人の奴隷を目撃しています。
宣教師たちが「奴隷貿易許可証」を
発給していたのです。
つまり、キリスト教の宣教師たちと、 
奴隷商人たちは“グル”だったのです
(『戦国日本と大航海時代』)。

しかし、そのころの日本には、
アメリカ大陸の先住民にも、
他のアジア諸地域にも、
どこにもないものがありました。

それは、秀吉による強力な統一政権と、
それに従う全国の百戦錬磨の大名たちと、
それに従う誇く、
戦闘能力の高い武士たちと、
そして最新鋭のしかも大量の武器です。

たとえば鉄砲ですが、
「鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、
まちがいなく世界のどの国よりも
大量にもっていた」(ノエル・ペリン著\川勝平太訳『鉄砲を捨てた日本人』)といわ れています。つまり、そのころの日本は
世界でも最強の軍事大国だったのです。

天正十九(一五九一)年七月、秀吉は、
インドのポルトガル副王へ
手紙を出しています。
貿易は許すが、布教は許さない”
という内容です。
なぜインドのポルトガル副王なのか..
というと、 ポルトガルは
「デマルカシオン体制のもとで、
日本の支配権はポルトガルにある」
と考えており、
そのポルトガルの宣教師たちを
統括しているのは、
インドのゴアにいる大司教だったからでしょう。秀吉は、国際的な情報を、
ちゃんと踏まえて通告しているのです。

八月になると肥前の名護屋に、朝鮮出兵のさい、本営となるべき城を築くことを命じます。
そして秀吉は九月、今度は、
マニラのフィリピン総督に対して、
こういう手紙を送るのです。

「三韓、琉球、および他の遠方の諸国は、すでに私に帰服して、貢物を収めた。そして今、私 はシナに対して、戦いをなそうとしている。...あなたがたも旗を倒して、私に従う時が来た。 もし従う時が、少しでも遅れれば、私は、あなたがたに対して、すみやかに罰を与えるであろう。その時、後悔してはならない」(原訳は村上直二郎、現代語訳は筆者\『異国往復書書簡集』)
※筆者とは松浦光修先生です。

この手紙は、翌年五月にマニラに届きます。
現地のスペイン人は、かなり動揺したようです。 そして、「そういえば三年前に、三、四十人の日本人がきて、マニラの港湾施設などを視察して帰っていった。あれは、偵察ではなかったか...。日本は、マニラの防御体制が手薄であることを知っている。現地人に与えていた銃は、回収しておかなければならない”と、考えはじめます。
マニラには戒厳令が敷かれ、フィリピン総督はスペイン国王に援軍の派遣を求めました(前掲 『戦国日本と大航海時代』)。

その頃の様子をキリスト教徒でシナ人の、
通訳・アントニオ・ロペスは、
こう証言しています。
 
「私は、皇帝(太閤様)が〔太閤様側近〕の(長谷川)法眼に、これらの〔フィリピン〕諸島 の征服を委ねたという噂を、日本で聞いた。私は、法眼の士卒たちが、この島に来ることを望 んでいる、と語るのを聞いた。彼らが私アントニオに、カガヤン(フィリピンのルソン島 北部の地域)の住民は、すでに征服されているのか、と訊いたので、私が『そうだ』と答える と、(法眼の士卒は)
『そうではない。自分たちは、そのことを知っている』と言った。...
『この島には、四千人から五千人のスペイン人がいる』と私が言うのを聞いて、日本人たちは 笑った。彼らは『(フィリピン)諸島の防備は児戯に類する。なぜならば、日本人百名は、スペイン人の二百名、あるいは三百名に匹敵する力を有するからである。だから(フィリピン)諸島を征服することは困難ではない。カガヤンにおいては(原住民が) スペイン人を憎んでいるから、日本人がカガヤンに行けば、ただちに原住民は、スペイン人を日本人の手に引き渡すであろう』と言っていた。
日本では、すでに大船三隻を建造しているが、他の目的には、その必要がないのだから、この諸島のためであると考えるほかはない」(パス テルス\松田剛訳『日本・スペイン交渉史』)。

スペイン人は、
日本軍の攻撃をきっかけにして、
フィリピンの人々が立ち上がり、
ひいては スペインの植民地体制が崩壊する
危険性を、本気で感じていたようです。


秀吉の出兵

文禄元(一五九二)年四月十二日
日本軍の 第一陣が釜山に上陸し、
やがて「文禄の役」がはじまり、
秀吉は総勢十六万の大軍を朝鮮に送り、
日本軍は五月二日、
朝鮮王国の首都・京城を陥落させ、
六月十五日には平壌に入りました。
 その翌月の七月、
秀吉はフィリピン諸島長官にあてて、
こういう手紙を送っています。

「私は、高麗の国に、その土地を通過することを求めたが、それを実行しはじめた時、高麗は 私に約束したことを行わず抵抗したので、私の軍の先鋒は、高麗の国を破壊した。これは、 はなはだ容易なことで、まるで雪に熱湯をかけるかのようであった。... 私は人々が皆、平和に静穏に生きることを求めている。そして、私の統治している地域では、 何人も商船の往来を妨げない。そうであるから、あなた方は毎年来て、貿易をすることができる。...フィリピンは、遠いとはいっても、もしあなた方が、私の命令に背くようなら、私は優秀な将軍を遣わして、あなた方を罰するであろう。... あなた方は、急いで私のところに来なさい。また、人を遣わして、私が言っていることを、スペイン本国にも伝えなさい」(原訳は村上直二郎、現代語訳は筆者\『異国往復書書簡集』)

秀吉の視線は、
朝鮮半島を越え...シナ大陸を越え...、
遠くスペインにまで注がれていました。 
しかし、その年の七月、明の軍が参戦します。
翌文禄二(一五九三)年になると
日本軍の勢いも衰えました。
そして、その年の四月になると、
京城からの撤退が開始され
戦線は膠着します。 
しかし、それでも秀吉は、
スペインへの威嚇をやめません。
 
秀吉は、フィリピン総督にあてて、
こういう手紙を送っています。

「今、私の配下の多くの武将たちが、マニラを占領する許可を私に求めている。...シナに到着したら、ルソンは、とても近く、私の親指の下にあるようなもの...ということになる。そうなったら、私たちは地理的にも近い関係になるのであるから、永遠に親しく交わりたいものである。 私がそういっていると、スペインに書き送りなさい。スペイン王は、遠くにいるといっても、私の言うことを、軽視してはならない」(前同)。

慶長二(一五九七)年二月、
ふたたび十四万の大軍を朝鮮に送りました。
 
「慶長の役」です。
その年、秀吉は、フィリピン総督にあてて、
こういう手紙を送っています。

「数年前、数人の宣教師がわが国に来て、外国の悪魔の教えを説き、わが国の貧しい庶民の、男子や女子の信仰を乱し、さらには、その外国の風俗を持ち込み、庶民の心を惑わし、わが国の政治も破壊した。そのため私はその教えを厳しく禁止し、わが国に一切入ってこないように命じた。
ところが、外国から来た宣教師たちは、自分の国に帰らず、町や村をまわって、密かに貧しい庶民、従僕、奴婢などに外国の教えを説いてやまなかった。私はそのことを聞いて、忍耐することができず、すぐに彼らを殺すことを命じた。
なぜなら、外国において布教は、外国を征服する策略、また征服するための方便である...と、聞いているからである。もし、わが日本国から、日本人の教師や庶民が、あなた方の国にわたって、神道の教えを説き、庶民を混乱させ、惑わし、人の道を踏み外すようなことがあったら、その国の統治者のあなたは、それを嬉しいと思うであろうか。喜びはすまい。もし私を批判するなら、そのことを、ちゃんと考えてから、批判しなさい。私は思う。あなた方は、そのような方法を用いて、フィリピンの古来の君主を追い出し、それに代わって自分たちがフィリピンの新しい君主になったのではないか。それと同じように、 あなた方は今、あなた方の国の信仰によって、わが国の信仰を破壊しようとしている。そして、やがては日本国を占領しよう、と企てているのである」(同前)

秀吉は、イベリア勢力が、
“排他的な思想と侵略的な軍事力”によって、
日本を征服しようとし、 
さらには征服後の日本兵を使って、
シナを侵略しようとしていたことまで、
知っていたようで す。

彼らが、ひいては東南アジア全域を
支配しようという野望をもっていたことも、
たぶん知っていたでしょう。

秀吉の手紙の内容
➡︎ 私は人々が皆、平和に静穏に生きることを求めている。そして、私の統治している地域では、 何人も商船の往来を妨げない。そうであるから、あなた方は毎年来て、貿易をすることができる。

➡︎ 私たちは地理的にも近い関係になるのであるから、永遠に親しく交わりたいものである。

こういう手紙の内容の一部からだけでも
秀吉は決して私利私欲のために出兵していたのではなく、人々が平和に暮らしていくことを強く望んでいたからこその行動だったと感じます。

特に私たち日本人は、
「日本人はダメだ」という様に
事実ではないことを
教え込まれている
傾向にあると思いますので、
ご先祖様のためにも
自分自身のためにも
まずはちゃんとした歴史を知ることが
大切なことだと感じました。

それは
自分自身のルーツを知って
自信を取り戻し、
本当の自分自身を思い出していくためにも
役立つことだと思います。

……………………………………………………

今回の内容は
松浦光修先生の研究内容の一部を
引用させて頂きました。

どうもありがとうございました🙇‍♀️🌟

前回ブログ【14】で秀吉の手紙について
「脅しではなく、理路整然と淡々と」
と書きましたが、
再び読み返してみると
「理路整然と淡々と威嚇してますね」😅{emoji:093_char3.png.!!}