唐突に。

「ウワーーーっ!もう、何が良くて悪くて、何が正しいか、正しくないかとか、何が何だかよく分からん(*´з`*)」

 

てな状態だったとしても。分かんないけど、そう感じる得体知れずに呑まれそうだとしても。

 

 

平気、大丈夫。

それ全部、ジシン(本質・魂・自神とか)は知ってるから。

 

 

慌てたり、怖かったり、ナンヤカンヤ感じるのは自分の心(ニンゲン側)とか、アタマだから。

 

 

そう考えたとしても、そう心が騒いだとしても、それはそれで起きる事として、見てればいい。(そうである事も自然な事だから、感じればいい…という意味)

 

 

ニンゲン側が感知できない所も、動いてるいる、あるんだから。ソコは「全部当たり前、当然」としたスタンスで冷静にあるから。そちらの方が「間違ってない」んだよね(*^^*)

 

 

見える所、知ってる事で判断できる事って、一体どれ位あるのかね。世界のどれ程を自分は把握しているのかね。

 

 

☆良いんだよ、この状態で大丈夫。全てこれで良いんだよ☆

 

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「だってそうしたいんでしょ?叶えてあげるよ、そんなの」

 

一昨日トイレに入って降りた言葉をメモした。

 

潜在意識にあるものが、叶う(現実化)から、顕在意識でいくら願っても叶わないものだった。

 

今、その言葉を言ったのは「自分の中のもの」、外じゃなかったと感覚から感じる。

 

潜在意識の力・声。

 

『逆』に入れ替わっている。顕在意識の私からすると、この位置関係になる。

 

・・・あれ?

潜在意識が叶うはずなのに?

顕在意識でいくら強く願っても潜在意識が現実化してきたのに?

 

入れ替る「私」。

 

今までの私じゃない。視えてなかった私に、私がなっている。

 

いやいや?

今まで私は「私」を見えてたか?どちらも見えてなかったはず。

 

私が私を叶えてあげる事は非常に容易く、「そんな事」らしい。

 

 

『自分を叶えてくれるのは自分』

と、現時点での私はそう表現する。

 

3/14ノート

 

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こちらのブログを始めた頃はまだ、「誤解」されるのがとても嫌だったと思う。

 

そんな意味で書いてない、何でそう解釈する?あー、そんな風に思われるんだ…。その中で書き続ける事で、慣れていったのもあるし、「他人の解釈」に深入りしなくなり、きちんと分離する事ができていった。

 

 

自分が勘違いされるのがイヤだった。もっとできるもん、知ってるもん…。低く見られる事がイヤだった訳だよね。

 

 

そもそも、他人の解釈が「自分の想像したような事」かどうかも分からないのに。同じ事をしていたのかもしれないし。

 

 

そういう経験の中で、「自分に集中」するようになっていった。そして、発信はあくまで主語は「私」で、どう思われるかでなく、「私は…」と主張のスタンスに注力するようにした。

 

 

合わなくなれば離れるのも当然で、引き合うものは引き合う。逆に今度は良くとられ過ぎてるなぁ…と感じたりする事もあったりして(笑)

 

 

同じように、他人の発信は「他人」のもの。主語はその人で、自分じゃない。人間として心が共感する時もあるし、魂目線で眺めた方がいい時もあったりする。

 

 

最近私が僅かに感じ始めたのは、

 

「どんどん自分が変化していく中で、『書きたい』が主ではなくなるだろうな」

 

という事。「どっぷり人間を全うしに来た」私にとって、様々な経験、気づきのプロセスを記録しておくという手段は変わらないけど、「外へ投げなくちゃ!」みたいな以前のような前傾姿勢は薄まった。(こんな気づきがあった!と前のめりでなく、自身がまっすぐ立っているだけで、かなり氣も満たされている)

 

 

自己探求は深くなっていき、人間をやり切って還る為、これからもチャレンジ、試していく事、検証などは続き、記録はしていくけども、諸行無常。流れでどのように変わっていくかは分からない。同じ事をただ繰り返す為の時間はない。

 

 

あと明日の記事でこのブログは終わりにします。