2009.07.20 Monday
N響アワー パパ・フランクのメッセージ
N響アワー:2009年7月19日 教育テレビ 地上デジタル
パパ・フランクのメッセージ
今回のテーマは19世紀後半のフランスで、後進の精神的支柱となって活躍した作曲家、セザール・フランク。なかでもフランクの代表作「交響曲二短調」そのほかです。
フランクは1822年ベルギー生まれ。熱心なカトリック信者で、パリの聖クロチルド教会のオルガニストを終生務めた。フランス国民音楽協会の設立にかかわったのは50歳を越えた頃で、その後間もなくパリ音楽院のオルガン科教授に迎えられますが、作曲の才能が認められたのは遅く、傑作は晩年に集中しています。
弟子たちから「パパ・フランク」と呼ばれ、熱烈に敬愛されていたフランクが「交響曲二短調」を発表したのは1888年。オペラやバレエなどの舞台音楽全盛の当時のフランスで人々が見向きもしなかったシンフォニーに再び光を当てた画期的な作品として、フランクの交響曲は今日も高い人気を得ています。
作品に込められたメッセージ、フランス交響楽再興への願いを読み解きながら、フランクがもたらした静かな改革の所産を紹介するというものです。
交響詩「アイオリスの人々」 (フランク作曲)
指揮:シャルル・デュトワ
[収録:2008年12月12日,NHKホール]
交響曲二短調 (フランク作曲)
指揮:下野竜也
[収録:2009年2月18日,サントリーホール]
管弦楽:NHK交響楽団
ー司会ー
西村朗 (作曲家)
岩槻里子(アナウンサー)
フランクはベートーベン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けているといわれている。
フランクには、パリ音楽院在学中の1840年に作曲された交響曲ト長調作品13が存在するが、現在では行方不明らしく演奏される事は全然ないことから、この交響曲二短調が実質フランクの唯一の交響曲といわれている。
この交響曲二短調を聴いていると、なにかしらブラームスのシンフォニーと似ているところがあるように感じるのであるが、これはやはり、フランクはフランスで活躍した作曲家でありながらも、ベルギー生まれであることから、ドイツ圏からの影響が大きい。
フランス人によるドイツ風の交響曲と評されることが多いのもわかる気がします。
1889年2月17日、パリ音楽院にて初演であるが、どうも初演の評判はあまり芳しくなかったようである。しかし、フランクはそれに気を落とす事も無く、自分の想像していた通りの音が響いたことに満足していたといわれている。ところが、ドビュッシーは一人この曲を絶賛したという話である。
それよりフランクにとっての不幸なことは、それから間もない1890年、パリで馬車との接触事故によりその怪我により死去してしまったことである。
N響アワー パパ・フランクのメッセージ
N響アワー:2009年7月19日 教育テレビ 地上デジタル
パパ・フランクのメッセージ
今回のテーマは19世紀後半のフランスで、後進の精神的支柱となって活躍した作曲家、セザール・フランク。なかでもフランクの代表作「交響曲二短調」そのほかです。
フランクは1822年ベルギー生まれ。熱心なカトリック信者で、パリの聖クロチルド教会のオルガニストを終生務めた。フランス国民音楽協会の設立にかかわったのは50歳を越えた頃で、その後間もなくパリ音楽院のオルガン科教授に迎えられますが、作曲の才能が認められたのは遅く、傑作は晩年に集中しています。
弟子たちから「パパ・フランク」と呼ばれ、熱烈に敬愛されていたフランクが「交響曲二短調」を発表したのは1888年。オペラやバレエなどの舞台音楽全盛の当時のフランスで人々が見向きもしなかったシンフォニーに再び光を当てた画期的な作品として、フランクの交響曲は今日も高い人気を得ています。
作品に込められたメッセージ、フランス交響楽再興への願いを読み解きながら、フランクがもたらした静かな改革の所産を紹介するというものです。
交響詩「アイオリスの人々」 (フランク作曲)
指揮:シャルル・デュトワ
[収録:2008年12月12日,NHKホール]
交響曲二短調 (フランク作曲)
指揮:下野竜也
[収録:2009年2月18日,サントリーホール]
管弦楽:NHK交響楽団
ー司会ー
西村朗 (作曲家)
岩槻里子(アナウンサー)
フランクはベートーベン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けているといわれている。
フランクには、パリ音楽院在学中の1840年に作曲された交響曲ト長調作品13が存在するが、現在では行方不明らしく演奏される事は全然ないことから、この交響曲二短調が実質フランクの唯一の交響曲といわれている。
この交響曲二短調を聴いていると、なにかしらブラームスのシンフォニーと似ているところがあるように感じるのであるが、これはやはり、フランクはフランスで活躍した作曲家でありながらも、ベルギー生まれであることから、ドイツ圏からの影響が大きい。
フランス人によるドイツ風の交響曲と評されることが多いのもわかる気がします。
1889年2月17日、パリ音楽院にて初演であるが、どうも初演の評判はあまり芳しくなかったようである。しかし、フランクはそれに気を落とす事も無く、自分の想像していた通りの音が響いたことに満足していたといわれている。ところが、ドビュッシーは一人この曲を絶賛したという話である。
それよりフランクにとっての不幸なことは、それから間もない1890年、パリで馬車との接触事故によりその怪我により死去してしまったことである。