暗い病室に少女を戻してやってから、もう数時間は経っただろうか。彼女は一緒についてきたクロに見守られながら、すやすやと眠っている。細い腕の中には、つぶらな瞳をしたピンクのウーパールーパーのぬいぐるみを抱えながら。本当なら、彼女は暗闇の中でたった一人、膝を抱えて蹲っている筈だったのだ。彼女が望みさえしなければ今も。狭苦しく、暗い部屋の中にはほんの少しだが明るい空気が漂っている。本来ならこれで良いのだと思い、俺は病室を後にした。

 

 

 

 一見廃墟に見える程古いこの燈台には、不思議なことに電気や水道が通り、食べ物も保存食ばかりとはいえ、減った分だけいつの間にかまた現れるようになっていた。一階の薄暗く、照明があったのだとしても、弱々しく頼りない裸電球一つしかないような倉庫の中。飾りも何もなく、ある意味では骨組みだけとも云えるような鉄の棚に。クロがやってくる少し前に中身を確認した時には、一年半保つか保たないか。それくらいの量だったのに、クロがやってきた時には減った分が少しとはいえ戻りつつあった。缶詰、レトルトが種類こそランダムとはいえ、それぞれ三つずつ。ラベルを見ると、カンパンや米の粥、黄桃といった文字が見える。レトルトの方は殆どが粥だったが、一つだけおじやか混ざっていた。カレーの箱や中華丼、更にはパック入りのご飯にも、手をつけられた形跡は一度としてなかった。

 

 

 

 地下の部屋に戻っても変わらず何もないので、またあの聖堂のような部屋に行った。重い木の扉を開けてみると、そこにはもう三つの椅子はなかった。代わりに、この前赴いた時には無かった筈の祭壇とパイプオルガンがある。聖堂や教会、礼拝堂につきものである長椅子はない。石畳のような床の上には古くなり、ところどころほつれた赤く長い絨毯が敷かれている。低い石段を上り、ソレ自体が楽器には見えず、ある種の芸術品のような真新しいオルガンの鍵盤に触れてみる。無数にある鍵盤の中から、白い一つを優しく叩くと、そこからは『レ』の音が聞こえてきた。譜面が本来なら立て掛けられている筈の台は空っぽで何もない。紅い天鵞絨(ビロード)のクロスが掛けられた祭壇の上には、メノラーと思しき燭台が一つあるだけ。この部屋に限らず、燈台の中には何の為にあるのか分からない部屋が多かった。

 

 

 

 

相変わらず見事なステンドグラスだった。が、別に聖画がそこに描かれている訳ではない。寧ろ、ただ図形を乱雑に組み合わせた、抽象画にも等しい代物だが、メインには鮮やかな紫色が使われ、牡丹色、青紫、檸檬色、藤色と続く色彩は上品で優しい雰囲気を纏っている。何が描かれているのかは全く分からないが、これがもしアマリリスの記憶そのものだとしたら、この部屋は彼女の記憶を再現する為の場所、ということになるだろう。他の部屋もそうだ。記憶以外に心情さえも表しているのだとしたら。開かない部屋の中にはきっと、俺にさえ隠し通している何かがあるのかもしれない。

 

 

 

 

 どれくらい時間が経ったのかは分からないが、俺は病室に戻ろうと昇降機(エレベーター)に足を踏み入れた。変わらずボロボロで狭いとはいえ、階段が一つもないこの燈台の階と階を繋いでいる。なくてはならない設備だ。エレベーターを降りた先、突き当たりには小窓が付いた木の扉がある。艶はなく、粗末なもので、ドアレバーの塗装も剥がれつつあった。そいつを開け、俺の目に飛び込んできたのは、

「……うっ、ううう……。はぁ、はぁ……」

「怖くないからな?アマリリス、我がいるのだ」

終わらない悪夢に怯える少女と、彼女をあやすクロの姿だった。この調子だと、また『王』が会話と称して泣かせに来たのだろうか。それとも別の目的があるのだろうか。俺には分からなかった。

「ああ……、またか……」

「また、とはなんだ?」

「クロ、お前がいない時、俺はアマリリスをあやしてたんだ。一晩中傍にいたこともあった。それでもコイツは怯えてばかりで中々心を開こうとしない。俺を受け容れてくれたのはアマリリスしかいないのに!コイツの名前は毒の花なんかじゃない、古代の詩人が書いた世界の、内気な羊飼いのモノなんだ‼︎それなのに、何故、何故……」

 

 

 

 

 目の前の賢人は涙を流しながら、外の己と同じ色のドレスを着た小さな少女を抱き寄せる。この病室には似つかわしくないような、漆黒に染め上げられたソレには白が一つもない。まるで十九世紀に作られたジュモーの人形を思い起こさせる美しさでありながら、つけ襟、ゆったりとした袖、スカートの裾や頭飾りを縁取るフリルまでもが黒く染められている。地味というよりかは、着ている本人の眼の色からして、『不気味さの中に妖しさが潜んでいる』と言った方がいいだろうか。今の彼女は胎児のように身体を丸めながら、屈強な死神の大きな手で撫でられることで漸く眠れる程のか弱い少女でしかないのだが。

「……捨て去りたい、とアマリリスは言っていた。事実、我と初めて会った時には偽りの名を名乗っていた」

「……そんなこと、ある訳……っ‼︎捨てようとするな‼︎お前の名前が呼べなくなったら、俺はどうすれば……」

尚も眠る少女の髪を撫でつつ、目の前にいる彼は静かに啜り泣いている。今もそうだ、まるで幾千もの鞭撃を罪人に刻み込むように。或いは、愛の証として己の身体に沢山の切り傷を刻み込むようにして、アマリリスの名を呼び続ける。お人形(ドール)という言葉さえ今はもう出てこない。狂気にも等しい愛は、彼の身を今でも蝕み続けていた。

 

 

 

 

その愛の余波は知らず知らずのうちに、この燈台のどこかに影響を及ぼしていた。工場が現れたのだ。元々この燈台にはなかったもののようで、他の部屋や廊下と違い、古めかしさを感じさせない。現代的な佇まいでありながら、工場が稼働している理由は実に悍しく哀れにさえ感じるものではあったが。少女がそれを見たらどうなるのか。表情を我は見たことがない。しかし、もしそれが愛だというのなら、これ程歪な愛は赦されるのだろうか。ただ一つ言えるのは、どんな形であれ、二人は簡単なことにさえ気づいていないということ。それにさえ気づければ、二人とも楽でいられるだろうに。

 

 

 

 

 狭苦しい病室の中を見回してみると、物々しい機械が壁の方にあった。というより、壁そのものが機械と化している。それは一度も使われることなくゆっくりと錆び、朽ちていくのだろう。暗くてよくは見えないものの、数個のメーターや幾本もの黒いコード。それと、心電図か電光掲示板を思わせるモニターがある。金属製の小さなレバーもあるが、全て何故だか下げられている。全部で三つあり、それぞれ用途が別なのか、白いプラスチックのプレートに刻まれている文字は全て違う。この部屋の天井に電灯がないので分かりづらいが、黒い文字がうっすらとだが見える。『圧1』『動3』は分かる。最後の一つは分からない。文字が欠けていて読めないのだ。

 

 

 

 

 病室にあるベッドは何故だか宮付きで、棚の上にはテーブルランプがポツンと置かれている。中に白熱電球が入っていて、円柱状のそれに飾りなどない。麻で作られた、生成色のシェードで覆われているだけだ。ベッドそのものは、白木だろうか。暗闇の中で目が慣れていても分からないものは分からない。少なくとも病院にありそうなパイプベッドではなかった。その上に黒いドレスを着た少女が、まるで眠り姫のように眠っている。ゆったりとした袖の中からは白い包帯が覗いていた。

 

 

 

 時計が燈台の中に一つもないせいか、時刻が一切分からないものの、冷たい隙間風は変わらず吹いている。たまに寝返りは打つものの、起きようとはしない。だが、

「怖い……、来ないで……」

寝言のようだがどうも様子が可笑しい。そもそも夢の中で夢を見るというのも大概だが。

「どうした?」

「大きいひと……。髪が長くて、大きな口が、二つ……。私の首筋を舐める、の……」

「……ノエルのことか。眠るのが怖いのか?」

少女は黙りこくった。三十秒くらい経った後に、我に向かって、

「……工場、行きたい」

とだけ呟いた。

「望むモノが得られるとは限らんぞ」

「いいの、それでも……」

そう言って、彼女はベッドから降り、包帯を巻いた足のまま病室を後にした。すぐ隣に我もいるから、目が見えずとも心配はないだろう。

 

 

 

 アマリリスが工場に向かった理由はすぐに理解出来てしまった。興味本位だけならどんなに良かったことか。恐らく、未だにトラウマが癒えていないのだ。いつまで経っても怪我ばかりしている彼女の純潔を、無理矢理奪った時の顔は今にも泣きそうで、恐怖に怯えていた。まるで、この燈台に来てから初めて目を覚ました時のように。あまり信じたくはないが、今の彼女は時が巻き戻っているのかもしれない。或いはフラッシュバックを起こしているのか。どうしてそんな顔をするんだ。俺をそんな目で見ないでくれ。怖がらないでくれ、拒まないでくれ。蔑まないでくれ。駄目だ、様々な想いが一気に溢れ落ちそうになる。胸の内が張り裂けそうなくらい苦しい。いつの間にか紅い眼からは一筋の泪が頬を伝っていった。

 

 

 

 薄暗く、ところどころボロボロに朽ちた工場の壁には、訳の分からない文字とともに人形を表すピクトグラムが描かれた張り紙があった。少し離れたところには、人形のピクトグラムがゴミ箱に捨てられているイラストの張り紙がある。二枚とも古くなっているのか、インクが色褪せ、剥がれそうになっていた。天井を見ると、ごく僅かな照明が白熱電球と然程変わらない光を発している。ベルトコンベアの上には大小様々な人形があり、僅かに速いスピードで流れていく。しかし、その先にあるものが一体何なのか、彼女達に分かる筈もない。これから押し潰され、灼かれ、穿たれ、切り刻まれていくというのに。人形はコンベアの外に出ようとはしない。されるがままだった。中を覗いてみると、ぬいぐるみの類は一つもない。全てが全て、俺がこの目で飽きる程見てきた『ありふれた女の子の人形』だけだった。目の色、髪の色も全て一定のパターンに沿って作られている。切り刻める人形が混じっていることから、どうも身体の材料はビスクだけとは限らないようだ。今までとは違い、赤ん坊や十代の少女の人形も混じっている。幼い少女の人形も確かにあるが、全体から見るとそこまで多くない。彼女達は虚な目で天井や、黒いコンベアの床を見つめながら、順番に壊されていく。それを止める術は、今の俺にはなかった。

 

 

 

 

 砂や埃に塗れ、汚れた床には壊し尽くされた人形達が積み上げられていた。こんなゴミに感情を動かされる者がいるのだろうか。あの時のように、俺は何も感じてはいない。泪さえ流してはいないから。この砂や埃も、靴を僅かに蝕んでいくだけの迷惑な代物に過ぎない。こんなものにさえ泪を流せてしまう輩といえば、俺が知る限りは一人しかいない。

 

 

 

 

 天辺へ近づくにつれて、少しずつラジオのノイズが耳に入ってくる。決して心地よいものではない。少なくとも不快な音の一つではあるから。俺は未だにゴミ山の中で、逃げ出した少女を探している。どうしようもない理由で生きることに絶望し、この繭の中で、独り生を終えようとしている彼女を。だが、彼女は人形を壊すことなど本来なら望まない筈だ。きっと、戯れる方を選ぶだろうから。もし、僅かでも俺の望みが実現していたのだとしたら。こんなに恐ろしく、悲しいことはないだろう。

 

 

 

 人形の足や手、髪の毛がゴミ山を登る俺の足を絡め取り、何度も転びそうになる。伝えたいこと一つ真っ当な形で伝えられないような、不器用な俺の心が折れたとしても可笑しいことではない。沢山のゴミを掻き分け、漸く天辺に着いた時、少女はクロと一緒に座っていた。だが、その顔はいつにも増して哀しそうに見える。

「アマリリス……?」

隣にいるクロも泣きそうな顔をしていた。そのうち、俺の存在に気づいた少女が、

「……どうして来たの。貴方が来ていいところじゃないのに!お友達を返してよ‼︎」

「ま、待て‼︎お前のお友達はクロだけじゃないのか⁈」

「ぬいぐるみさん達も、お人形さん達も、クロだって……。みんな大事な私のお友達よ!なのに、なのに……」

「アマリリス、お前……」

あまりにも優しすぎる。優しいからこそ物言わぬ人形達の為に、ここまで苦しめてしまうのだろう。俺にはとても出来ないことだった。

「帰りたくはない、のか?」

「もう少し、ここにいたいの……」

「……そうか」

クロは何も言わない。ただ少女の小さく白い手に撫でられながら、静かに泪を流していた。