誰の望みか分からぬ悪夢(ゆめ)の中は、まるで箱庭のように閉じていながら、その実何かが毎日のように流れ着いていた。たわいもないガラクタが殆どだったが、今日はその中に一つだけ新品のバターナイフが紛れ込んでいる。今の我では掴むことさえ叶わないが、その刃の輝きは鈍く、刺すことさえ出来ぬ程柔らかだ。汚水と、その他の古い巻き鍵や、錆びた鈴、千切れた紅い石の付いた腕輪と共に岸へと流れ着き、今にも再び暗渠へと沈み込もうとしているソレは、誰かが手に取るのを待っているようだった。

 

 

 

冷たい風さえ吹かず、ただ虚無が広がる巨大な洞の中にぺたぺたぺた、と弱々しい足音がこちらに近づいてくる。我の小さな耳でも聞き取れてしまう程、徐々に大きくなっていくソレは、突然止まってしまった。振り向いてみると、目の前には小さな少女がいる。本来左眼がある筈のところには、真っ白な包帯が巻かれていて、右眼は不気味な程紅い。だが、その不気味さは目に入った瞬間、手に取りたくなる類の妖しさでもある。余程の偏屈者でさえなければ一度は憧れるであろう紅玉(ルビー)の輝き。それも流れ出る血のような生々しさと来た。そんな美しくも沈むような色の眼は一筋の涙をこぼした。

「痛い、痛い……!」

譫言のように、或いは呪詛のように呟いている。黒い襤褸を纏い、その下には包まれた細い脚が見えるが、足の裏は汚れていた。その上、彼女を包む柔らかな白はところどころ破れている。首には鎖のついた首輪がはめられ、まだ比較的新しいソレそのものは細い。後ろ髪は相当長いことが伺い知れるが、正面からはどうなっているのか分からない。少なくとも腰の辺りはゆうに超えている。目の前の少女は我の姿が見えてないのだろうか。そのまま地面にぺたん、と座り込んでしまった。その小さな手は鈍らの短刀を捉えながら。

 

 

 

 

あのバターナイフが彼女の小さな掌の中に入ったかと思えば、ほんの少し口元が緩み、またも独り言のように、

「よかった……。これで、やっと……」

と小さな唇で呟く。紅い眼は不気味な笑みを浮かべ、我などお構いなしに進んでいく、その筈だった。

「……見えなくても分かるわ。貴女、とても可愛いもの。怖がらないで?『クロ』……」

「……そなたは誰だ?確かに我の名はクロだが」

「……私の名前なんて訊いてどうするの?私、この名前を捨て去りたいのに。もう『私』は『私』で在りたくないの。代わりは幾らでもいる筈なのに、離してはくれない。『私』を愛してくれるひとはもう、この世にはいないのに……」

「己の破滅だとしても、そなたはソレを望むのか。繭を突き破ることなく、此処で果てるつもりか。終わりの終わりを望むのか。もしそうするつもりなら、そなたの名前を訊かせて欲しい。我だけでも憶えておいて損はないだろう」

少女は一瞬だけ考え込む様子を見せ、

「……私は『アリス』。よろしくね」

名乗った彼女は笑顔をこちらに作って見せた。我には少しだが解る。彼女はほぼ確実に嘘をついている。もし、偽りの名を名乗った上で我に懐こうとしたのであれば、ソレは逆効果になるだろう。本来ならば。まあいい、ほんの少しだけそなたの遊びに付き合ってやろう。

 

 

 

 岩壁の中の空洞は不思議と明るく、進むべき道が見えないということは全くなかった。元々此処が何だったのかは分からぬが、地面には錆びついた線路が敷かれていて、ソレが何処まで続いているのかは全く見当がつかない。途中、ポスターやら貼り紙が貼ってある古い木枠の掲示板を見つけたが、古い写真や掠れた文字ばかりで我には読むことさえままならない。人間の文字をほぼ知らないというのもあるが。色褪せたモノクロの写真の中にある人間達は、皆、ショーウィンドウの中にある人形にさえ見える。表情というものをまるで感じられない一方で、見てくれだけは煌びやかなのだ。一つとして色味が感じられず、何も分からないモノクロの世界においても、外の世界の貴族の女が着ているようなドレスだけは、変わらず華やかなのだ。貴婦人が着ている絹のドレスには沢山の飾りボタンが付き、裾と、ほんの少しだけめくれた長いスカートの中は、目が痛くなりそうな量のフリルで埋め尽くされている。色付きのフリルで彩られた肩を出しつつ、沢山の宝飾品で飾られた帽子を被った若い女。どうせ模造品(レプリカ)だろうに、と我は冷ややかな目で見ていた。帽子についているのは真珠以外、色が分からないものの、透明で鮮やかな色をしていることは辛うじて解る。幼い少女の、僅かながら見える方の目がほんの少し輝いたかと思うと、程なくしてすぐに沈んでしまった。

 

 

 

 岩壁の天井から吊り下げられたランタンと錆びた茶色い線路は、まるで人形の家を思わせる小さな家の前で途切れていた。屋根の色はくすんだ赤紫。平屋建てだが、何処か懐かしさを感じられそうな、温もりあるログハウスのような洋風の家。小さな外灯が我々二人を温かく迎え入れるかのように橙色の光を柔らかく放っている。凝った装飾のドアレバーを少女はひねり、鍵穴一つない扉をいとも容易く開けてしまった。

 

 

 

 

 扉の中はすぐ居間と繋がっているようで、靴脱ぎ石の一つもない。現に少女は半分裸足とはいえ、そのまま上がっている。そのせいか、フローリングにぺたぺたと小さな足跡が付いていた。壁などに目を向けると、古いデザインのテレビがある。脚が四つの、妙な形をしたアンテナがあり、ツマミでチャンネルを切り替えるやつだ。その隣には黒電話が置かれた台がある。しかしよく見ると電話線は切られていて、外部との連絡は取れない。こんな閉じた世界で外との連絡を取る、というのもおかしな話ではあるが。床には長めの、白木でできたシンプルなデザインのテーブル、合皮製で薄いアイボリーの、三人が丁度座れる大きさのソファがある。テレビから少し離れたところには、衣装箪笥(クローゼット)がある。真新しく、柔らかな木材で出来たソレの扉を開けると、中からハンガーにかけられた、飾り気のない白いブラウスと、裏地のある藍色のスカートが現れた。大きさからして、我の隣にいる彼女のモノだろうか。柔らかな印象さえ与える丸襟の白いブラウスだが、袖の一部を構成しているふんわりとした幅広の大きなフリルのせいか、ゆったりとして見える。コレで黒タイツと革靴でも履けば清楚なお嬢様に見えなくもないのだが。彼女はソレに早速着替えようとしたが、

「……見えないの、手伝って」

「我には両足はおろか両手すらない。無理だ。それに何らかの理由で左眼と視神経のリンクが切れておる。そなた、左眼に何をした?」

「……だいぶ前にね、潰したの。私、死のうとして死ねなかった。渡された鋏使ったのに、出来なかった。大きな人にいつもお世話されて、怖かったの。だから、死にたくて死にたくて何度も逃げた。でも、その度に見つかって……。逃げるのさえやっとだった。殆ど目が見えないし、躰中が痛いし。早く、楽になりたかった……」

「すまない……。もう手遅れだったか……。我がもう少し前に悪夢(ここ)にいれば……」

「大丈夫、少しだけなら出来る……。時間はかかるけど」

そう言って彼女はぎこちない手つきでブラウスのボタンを留め始めた。見ているこちらが心配になり、思わず手伝ってやりたくなるような拙さは、目が見えないというハンディキャップ以上の何かを内包している。コレはあくまでも推測に過ぎないが、彼女は元々金持ちの家に生まれ育ち、髪のセットはおろか着替えすらも侍女(メイド)にさせていたのではないか。生まれてこの方そんな生活だったのなら、ここまで下手なのも合点がいかない訳ではない。ボタンの位置がところどころズレている。その上、折角の綺麗な服だというのにくしゃくしゃになってしまっている。我は、彼女にボタンを正しい位置に留めるよう、一つずつあるべき位置を伝えた。ゆっくりではあるが、輝きを帯びた白いボタン達は本来在るべきところへと留められていく。最後の一つを留めた後、少女の細い腕は暗い色のスカートに伸びていた。短くも長くもない、膝丈のソレには何も装飾が付いていなかった。意味のないボタンも腰紐も、ひらひらとしたリボンもベルトも何も付いていない。ついでに、フリルもついていない。縫い目は丁度真後ろにある。脚の包帯さえ無ければ完璧だろうに。彼女は我のことなど目もくれず、隣の部屋へと行ってしまった。ゆっくりとドアを開けると、その中には暗闇が広がっていて、吸い寄せられるように、よろよろと部屋の中に入っていってしまった。

 

 

 

 

 完全にはドアが閉まっていなかったのか、我の躰はすんなり隙間へと入ってしまえた。その部屋の中に入った途端、暗闇の中で目が慣れたからか、急に柔らかそうな物体が目の中に飛び込んできた。丁度二人が眠れるサイズの、大きな簀ベッドにトリケラトプスの大きなぬいぐるみ。その隣には彼女がこちらを向いて座っている。よく見ると、薄水色の髪は暗い夜色のリボンで結ばれているのが分かる。誰が結んだのだろうか。リボンそのものはキツく結ばれているが、ふんわりと先端だけが一つに纏められていて、結ばれたその先が絵筆か狐のしっぽに見える。布団を被りながら俯いているせいもあり、表情は伺い知れない。何の模様も描かれていない、白い布団をぎゅっと掴みながら、何かに怯えている。

「……教えてくれ、そなたは何に怯えているのだ。何から逃げてきたのだ?」

我の問いかけに、彼女は、

「私を生かそうとしているひと……。それも、そのままの私を……」

とだけ答える。とても小さな声で。

「痛いのに、辛いのに……。苦しいのに……。もう私を受け容れてくれる人はこの世にはいないのに……。飼い犬のシエルも、お父様も、もうあの夜に……」

少女の唇が続ける。

「まだお父様が生きてた頃も、憧れは膨らんでいくばかり。私もお人形さんみたいに美しく生まれてみたかった」

「……この箱庭の中でそんな莫迦げた願いが叶うのなら、そなたはどうするつもりだ?どんな願いでも全て叶ってしまうのだぞ?この繭はそなたのモノだからな。『ないものなど此処には無い』のだ」

我はほんの少し目を細め、口元を歪めた。戻ることさえ出来ぬ暗闇に抱かれて、くすんだ想いを胸に留めつつたった一人で眠りたいという願いだけはどう転んでも叶うことはないが。彼(ルナ)を、我を望んでしまった以上、絶対に逃れることは出来ないからだ。百合擬(アマリリス)の名を付けられた少女よ、さあどうする?

 

 

 

 医務室からは微かな息や声さえも聞こえなくなっていた。つまりはまた逃げられたということだ。コレで何度目だろう。否、今回は起こるべくして起こったのだ。もはやこの想いは抑えきれなくなっていた。元々美しく、可愛らしい容姿の彼女には惚れていた。そう言っていいだろう。だが、とても臆病で大人しい上に、何かに囚われた彼女の心を溶かすのは容易ではない。彼女に拒まれ、逃げられる度に狂気にも近いような悍ましい愛が内側から湧き上がり、この身を支配していたのは、いつからだろう。彼女の躰を遂に手に入れた筈なのに、心まで手に入れることは未だ出来ていない。物言わぬ人形ではないことくらい解っている。彼女にも、弱くとも意思は確かにあるのだ。ならば、今この手の中にあるモノは何だ?何も与えられず、暗闇の中に取り残されることを望むくらいなら、俺が望むモノをいくらでも与えてやろう。そう思った俺は医務室の外へ出た。重い鉄の扉を開け、まるで工場のような場所へ向かうと、その手前には昇降機がある。この建物のことは知り尽くしたつもりだが、この先へ行ったことはない。だが、もしアマリリスがこの先にいるのなら?いないとしても向かうだけの価値はあるだろう。俺は重い音を立てる昇降機へ足を踏み入れた。

 

 

 

 暗い岩場の近くには使い物にならないような、古いガラクタの数々が打ち上げられていた。立派な鋏の刃は錆びつき、ビンは割れ、美しかったであろう宝石はただの石ころになっている。何かが描かれていたであろう缶バッジは塗装が剥がれていたし、インクが入っていないどころか詰まってつかえなくなった、元は高級品だったであろう万年筆。黒いビンドウにも何か引っかかっているようだが、その中身は濁った水のような緑と澄んだ水面のような青のビー玉数個だった。俺はビンドウの中身を戻し、錆びついた路へと戻る。くだらないモノを見てしまったからだろうか?それとも彼女が傍にいないからか。俺の心はもう何も見ようとはしなくなっていた。手の中にある黒いドレスを見遣り、一時の陶酔を味わう。ソレがたった数秒だったのだとしても、いつの間にか俺の目は細められていくのだ。もうすぐ、もうすぐだ。漸く、愛おしいお人形(アマリリス)に逢えるのだ。辛く、苦しかったのだろう?闇の中に沈む時は俺も一緒だ。だから、泣かないでくれ、可愛いアマリリス。

 

 

 

横たわり、寝息を立てている少女に何一つ話しかけることなく、我が部屋の外へ出ると、居間の外にもう一つドアがあることに気がついた。やはりというかこちらのドアも開いている。見てほしい何かがあるのだろうか。中に入るとやはり暗闇。だが、さっきとは毛色が違うし、何より先客がいる。目の前にいる彼は、我の力ではとても敵いそうにない。仮に体当たりをしたとして、護符の力で弾かれるのが関の山だ。暗いせいで分かりにくいが、どうも目の前の彼は、自分の正面を向いている何かに向かって語りかけているようだった。ソイツは何も答えない。悲鳴すらあげない。声の一つも出さない理由は分かりきっている。賢者の目の前にいるのは人形だ。ソレも、髪こそ短いがあの少女によく似た、不気味な目をした人形。眼は少なくとも紅ではない。美しい金糸の髪をぐいっと引っ張られ、ソイツの躰が少しだけ持ち上げられる。死神の口から、

「……虚しい妄想に未だ縋っていたとはな、莫迦な奴だ」

紺色の闇の中、それだけが紡がれた。呆れにも哀れみにも似たような声だった。

 

 

 

 白い塗装が施されたロッキングチェアの上に座る人形を、俺はじっと見つめていた。御伽話の中にいそうな金の短髪、くすみ、灰色がかった空色の眼。そんな彼女にはどこを怪我している訳でもないのに、何故だか全身を包帯で包まれていた。首から上は、右眼だけが包帯で包まれている。暗く、四畳半くらい狭いこの部屋には他に何もない。電灯のスイッチはあっても、天井の電球は点かなかった。壊れているのだろうか、それとも中の電球が切れているのだろうか。人形は瞼を半分だけ開きつつ、こちらを見ている。そんな眼をしても無駄だろうに。きっと未だに彼女はコイツに憧れを抱いているのだ。何故、気づこうとしないんだ。もしもまた、彼女が逃げてしまうのなら、鍵よりも鎖よりも、枷よりも更に確実なモノがある。ソイツで包み込んでしまえたら。狂気にも近く、重苦しいソレで彼女を離せなくなればどんなにいいか。

 

 

 

 きっと彼女にとっては悍ましい形で願いが叶っているのだろう。望みが簡単に叶うこの世界に、正しさという言葉はない。全てが全て、一つとして少女の望みは思うような形で叶ってはいない。望む容姿を手に入れられていないことからも、俺がここにいることからも。

「諦めてくれ、もうお前は逃げられない……」

お前は悲しいのだろう?辛いのだろう?苦しいのだろう?お前の中にある記憶(モノ)が、お前を此処へ留めているのだろう。お前の望みは新たな名前を手に入れることなのか?お前がお前でなくなることなのか?お前自身が消え失せることなのか?

「……問うだけ無駄だ」

お前が何をしようが、きっと完全な形で消すことは出来ない。傷だらけの心をいくら閉ざそうと、遠い世界が来ようと。きっと俺達二人にはお前がいた、という事実だけは残される。剥がせない瘡蓋のように。

 

 

 

 もう一つの部屋のドアを開けると、愛してやまない彼女はそこにいた。人形ではない。あれ程忌み嫌っている、紅い眼に、長い薄水色の髪をした彼女が。ベッドの隣には細長い木枠の姿見がある。アマリリスは恐竜のぬいぐるみを抱いたまま、胎児のように眠っていた。小さな躰の上に薄手の毛布だけをかけて。脚の包帯をよく見ると、茶色く乾いた血が股の付け根についている。これで思い知っただろう?お前をどんな形であれ、求めている者がすぐ近くにいるということを。

「……いい加減、眠りから覚めたらどうだ?」