3日前のブログに「与えない」と書いたばかりなのに

すみませんが

 

前言撤回ということじゃないんですけど

あれから新たな大事な気づきがあったんですよね

 

 

「与えるのは傲慢な感じがする」

 

とはいえ

 

「与えることが傲慢だと感じることも傲慢だ」

 

この思いもあって

心がスッキリしなかったんです

 

 

(じゃあどこに本当の思いがあるのかな?)

 

 

さて、今朝のこと

 

 

瞑想しながら天使に

(どこに本当の思いがあるんでしょうね?)

と尋ねていたら・・きましたよきましたよ(笑)

 

 

そのとき

心の中から(ありがとう)という声がして

それが世界に広がってゆきました

 

 

最初は父の顔が浮かび

ありがとうが父に向かっていきました

 

そして父以外の沢山の人の顔が浮かび

その人たちにも広がりました

 

世界の隅々まで広がりました

 

これは「感謝の思いを○○さんに与えた」

ということになるのでしょうが

このときに傲慢さを全く感じなかったんです

 

与えたのに!

 

 

何故傲慢さを感じなかったのか?

 

完全に無条件だったからだ、と気づきました

 

 

私はそのとき

別に父に受け取って欲しいとも思ってなかったし

父が感謝の思いを持ってないとも思ってなかった

 

与えるという意識そのものがなかった

 

ただ内側から出てきた(出そうとも思ってない)

感謝の思いが思いを向けた人に向かっただけ

 

水が高いところから低いところに流れるように

ただそうなったという感覚

 

 

形としてはこれを「与える」と言っても

間違ってないでしょうけど

 

これは最早

「分かち合う」と言うのもぴったりの感覚ではない

 

言葉ではなんとでも言え、みたいな感じ(笑)

 

 

感謝の思いとはたしかに

その思いを向けるものに向かうのだけど

※だから与えると言ってもいいのかもしれないけど

 

そこに意図が全くない無条件の愛の思いなんだなぁ

しみじみ

 

 

・・ということで

 

私はいつでも感謝を与えます・・与えられる人になりたい

 

もしかして感謝だけが

与えても傲慢になり得ない思いなのかもしれない

※これはまだ確信してはいないが

 

幸せな人に感謝を与え

悲しんでいる人に感謝を与え

あらゆる人のあらゆる思いに

あらゆる出来事に

 

感謝を与えます、心からの感謝を

 

 

うん、これだと傲慢さを感じない、しっくりくるゾ

 

 

IMG_6347.jpg

 

 

物質的なレベルで「足りないものを与える」より

ある意味難しいことかもしれませんが

 

この世で 感謝 とは

 

無条件のエネルギーを持っているんだなと

わかった気がするよ

 

 

あああ、急に眼前が開いたよぉ

 

ありがとう(笑)