昨日のブログの続き

 

自分をなかなか謙虚と思えない理由の件です

 

 

卒業論文を書いているとき

 

「私はスピノザの思想に近づこうとしているのではなく

自分の中にすでにある思想に

スピノザを近づけようとしているのではないか」

 

と思ってしまったんですよね

 

簡単に言うと「自己流の解釈をしていないか」

ということです

 

 

もしかして学生時代からそうでした

 

例えば数学のテストのとき

答案用紙を見た先生に呼び出されて

「答えは合ってるんだけど

教えた方程式を使ってないよ」とか

 

妙なやり方で答えを導いていることに

先生によっては大変褒めていただけるのですが

先生によっては首をひねられてしまったり

 

私としては真面目に解いたつもりなので

なんで教わった方程式を使わなかったのか

自分でもわからんのよ(汗)

 

 

良い方に捉えれば

自分で考える力があるということかもしれません

でも人の話を聞いていないとも言える

 

そしてそういうところを

気にせずにはいられない自分がいるのです

どうしても

「それは傲慢なのではないか、傲慢は嫌だ」

という気持ちになるんですよねぇ

 

 

今回の卒論テーマにスピノザを選んだのは

彼の思想に共鳴し興味を持ったからです

 

そしていざ卒論を書くために

まずはスピノザが何を考えていたのか

スピノザの思想を理解することに努めたつもりです

 

この時点で果たして私は

自分の思考枠にスピノザを合わせていなかっただろうか

 

スピノザの枠に自分を合わせたかったのですが

できていただろうか

 

 

指導教授の先生の

 

「スピノザとトモダチになっている」

「スピノザに寄り添い彼の心に沿う論文でした」

 

という講評が泣けるほど嬉しかったのは

そんな危惧があったからです

 

 

もちろん先生が偽りの講評をするはずがないのだから

※それこそそんな傲慢なことはしないだろう

先生の評価は素直に喜べるのに

それでもまだ自分を疑ってしまいます

 

「先生に言ってもらってるのに

まだ信じられないのかよ!」

 

自分ツッコミしたくなりますが(苦笑)

 

 

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1年で今だけ真正面に陽が沈む新宿区北町ロード

 

 

こんなことを言うのはそれこそ傲慢なのかもと

また怖くなるけど・・

 

・・心の奥に

決して揺るがないある思いがあるんですよねぇ

生まれた時からあるもの

※この思いがなんなのかを説明するのはとても難しい

 

でもこれだけは

誰にも何者にも変えることはできないような気がします

私自身にも変えられない

 

でもそういう思いがあることがなにより嬉しい

 

スピノザを理解したいのも

オーラソーマも奇跡のコースも

この揺るぎない思いを私自身がもっと理解したいから

 

そう思えば

やっぱり自分の枠にスピノザを合わせたいのかもね

 

 

・・あれ?

 

こんなこと書いてるけど

いま全然自分の傲慢さを恐れてないじゃない(笑)