律動の月22日・KIN10白い惑星の犬


昨日かおとといのブログに載せた聖書の言葉をもう一度。


「神のなされることは皆その時々にかなって美しい。

神はまた人の心に永遠を思う思いを与えたもうた。

それでもなお人は神のなされるわざを始めから終わりまで見極めることはできない」


旧約聖書 伝道の書(コヘルトの言葉) 3章11節 より



私たちは皆カミサマと同じく神聖な存在なんだけど、それを忘れがちだということ。

どうすればそれを思い出せるのか・・・が、この1節に書かれているのではないでしょうか。


※あ、もうこれは完全なるワタクシ流の解釈なんで、きちんと聖書を勉強している方たち、スミマセン



「永遠」という感覚は、「美」に出会ったとき誰もが実感すると思います。

何か美しいものに心を奪われた瞬間「時が止まる」ってよく比喩的に言いますよね、あの感覚。


その瞬間、自分の内側のすべてが「それ」だけで満たされる・それ以外のものがなくなるので、過去も未来もなくなるのです。


「美」に出会ったとき、おそらくそういう永遠なる感覚を感じる。

ということは裏を返せば、永遠なる感覚を感じるときそれを「美」と呼ぶのでしょう。


そうなると、カミサマ目線(=神聖さ)で世界を見れば、すべてが美に満ちているんでしょうかね~。


何故ならカミサマは「それ以外は存在しない世界に生きている」のでしょうから。

そこに時間という概念はないのでしょう。



コヘルトの言葉3章11節を上野的に解説すると、私たち人間はこうしたカミサマと同じ目線(=神聖さ)に立つことはできないみたいですね。

(「・・・それでもなお人は神のなされるわざを始めから終わりまで見極めることはできない」)


神の手の上で生きているものが、神の全体を決して見られないように。

森の中の1本の木が、森を見ることができないように。


ただカミサマは、時々私たちが神聖さであることを思い出せる体験を与えてくれると書かれています。

(「・・・神はまた人の心に永遠を思う思いを与えたもうた」)


「永遠を思う思い」・・・こうした感覚を通して、自分が神聖なる存在だと思い出させてくれるように、カミサマは計らってくれているのね、きっと。

(「神のなされることは皆その時々にかなって美しい」)


「永遠を思う思い」・・・つまり「美」を通して。


コーラルは「美」の色とも言います。



つい最近、私はふたつの美に出会いました。


ひとつは愛する存在との再会によって。

ひとつは美しいアートとの出会いによって。



えーと、これはじゃあまた次回に。おなかすいたんで。