自己存在の月6日・KIN198白い電気の鏡
おとといのブログで、今の自分の心情をこんな風に書き綴りました。
「その子の破けたお洋服を繕ってあげたい」
なのにどうしてお洋服を繕ってあげられないのかしら?繕ってあげたいのに。
そして先日受けたコースインミラクルズで「私たちがやることは「願って、受け取る」だけ」と教わりました。
上に願ったら(ask)、どのように(answer)は上にお任せして、あとは来たものを受け取るだけ(receive)だそうです。
更にある人のある言葉が加わって、なんだか繋がったのです。
私がその子のお洋服を繕ってあげたかったのは、その子がボロボロの服を着た自分をとても惨めに思っていたからです。
それでその子を惨めさから救ってあげたかったのですよね。
それが何だか・・・今朝、寝起きにふいに違うビジョンが見えました。
いや、ビジョン自体は同じです。
「ボロボロの服を着たその子をただ眺めている私」なのですが、そのときはただただその子が愛おしくて目を細めて眺めていました(笑)。
その子が惨めには全然見えませんでした。
多分・・・最初の私は、その子の惨めさに同一化していたんだと思います。
それによって私自身が「その子=惨めな子」と捉えていた・・・。
でも今朝の私はそうは捉えなかった。
そのときの私の意識は、askしてくるその子に対してanswerする側にいたような気がします。
「新しい服をください」とaskしてくるその子。でも本当はその子がaskしていたのは服よりも愛情なのです。
そしてその子は私自身でもあり、その子の中にある「どうせもらえないし」という(コーラルの報われない愛)思いが、recieveを拒んでいたのです。
そして「繕ってあげたいけどあげられない」私もまた、recieveできてなかったんですね。
私が今朝、何故answerする側に立てたのか分かりませんが(多分エンジェルの助けです)、answer側からすると見えるのです。
その子が受け取ろう(recieve)が受け取るまいが何も変わらないことを。
だから今はお洋服を繕ってあげてもあげなくても良くなりました(笑)。
そうは言ってもいまだ私の中には、ボロボロの服で悔し泣きをしている自分もいます。
でも今は93番が使えます。もうその子は惨めな子ではありません!
・・・なんかやっぱりオーラソーマ、すごいなぁ・・・あ、コースインミラクルズもね(笑)。