オリンピックをテレビで観ていて、柔道の詩さんの号泣を見た。あれほど人が泣き悲しむ姿を見たことが有るだろうか、心の底からの悲嘆を、きっと大勢の人が感じたことだろう。

 

 翻って考えると、自分も号泣した事があるのを思い出した。それは父を亡くした時である。

 私の父は、良い夫ではなかったし、良い父親でもなかったはずなのに、私は父が亡くなった時には、人生最高の涙を零したのだった。そんな私の涙を見て、二人の息子も随分泣いた。今でも息子二人は「何だって、おじいちゃんが死んだ時に、あんなに泣いたのだろうか」なんて、不思議そうに言っている。恐らく母親の私があまりに悲嘆にくれていて、その影響も有ったのだろう。

 

 身近な肉親を初めて亡くしたことも有るのかもしれない。肉親を亡くすことがあんなに悲しいとは思わなかったのだ。涙が後から後から湧いて来て、とめどもなく泣き続けたものだった。そんなに泣く程父を慕っていたとは思えないのに、自分の意に反して、涙は次から次へと零れ落ちて行ったのだった。

 

 父の人生は、私の頭の中では父が19歳の時から始まっている。韓国全羅南道の木浦の港から、母親の制止を押し切って、単身船に乗って、玄界灘を越えて日本にやって来ている。父は1922年生まれなので、19歳時は1941年なので、奇しくも真珠湾攻撃の年でもある。上陸地は恐らく下関だと思うのだが、手配師に連れて行かれた先は九州の炭鉱だったらしい。そこで過酷な労働を数年して、その後脱走したらしい。そして流れ流れて、関西の地にやって来て、後に舅になる私の母の父親に拾われて、母が16歳、父が24歳の時に入り婿みたいな形で結婚したらしかった。

 結婚当初のの住まいは、母の話では大阪市福島区の大開と言う場所らしいが、後に戦時中に疎開して、私の出生地である場所に移って来たらしい

 これらの話は、時々聞いた母の話の断片を繋げたものであるが、子供心に父の冒険話が不思議に思えて、父自体が不思議な人と言うか、何だか物語の中の人の様にも思えたものである。実際は、飲んでは暴れて、日本社会の中で生きていく不満をぶちまけるような人ではあったのだが。

 

 号泣は意図して出来るものではないと思う。詩さんの号泣をあれこれ言う人がいるが、あれは自分の意思ではどうしようもない、大げさに言えば魂の嘆きの発露なのだ。

 号泣したくても出来るものではないのだ。