1986年ごろから1991年ぐらいまで、日本経済はいわゆるバブル経済だったが、実はこの時期を失くしては今の我が家の生活は成り立たない。

 

 夫の親元近くの住まいから、乳飲み子の息子を連れて、夫と中古の軽自動車でこの地に越して来たが、細々としたその日暮らしだった。安アパートを経て、低所得者向けの団地に住んで、それから一応は持ち家の長屋でポットントイレの自宅を得ていて、その最中に突然、大企業に夫が就職することになったのである。その時、おまけとばかりに帰化もしている。結婚と言い、帰化と言い、本当は大変な事を我々は、何も考えずに行っているのだ。

 

 夫の初任給は40万円だったが、その会社の正社員は80万円から100万円位貰っているとの噂だった。課長は120万円、支店長は160万円と聞いていた。その代わりに睡眠もままならない過酷な体力勝負の仕事で、高給に引かれてやって来ても、大半は脱落して行く。

 今では考えられないが、バブル経済時期は、そんなに驚く話ではなかったはずである。連日景気の良い記事が新聞紙面をにぎわしていた。

 

 その上、1988年頃には消費税が始まり、3パーセント商品代金に上乗せされるというので、物流が活発になって、消費税前に品物を仕入れたり買おうとなって、夫の勤め先は、目の回る忙しさになった。毎日が高揚した気分で、体は確かに疲れるが、マンションを買ったとか景気の良い話が飛び交っていた。

 

 実はこの時期に一度夫は従来の持ち場から外されて、別の部署に配属されたのだが、高給を捨てがたく退職せずに留まったのである。これが効を奏して、その会社の一部の古参女性社員が気の毒だと立ち上がり、夫は元の部署に戻って行くのである。

 妙な言い方だが、夫は”人たらし”とでもいえようか、そんなところが有るのだ。男前でもないし背は高くないし、近眼で眼鏡を掛けている風采の上がらない男である。しかし、私が彼の実家を初めて訪れた時に、駅前でうなだれて待っている姿にどこか気を引かれたように、人の情けを誘う?というか、断ち切り難い気持ちを持ってしまわせるようなところが有るのだ。勿論それは演技でもなく、本人の全く気づいていないことではあるが、とにかく夫は古参女性社員の応援も有って従来の部署に戻り、それからはうなぎのぼりの収入で、経理操作は私がしているせいもあって、濡れ手で粟状態が続いた。

 個人経営を法人化して、そこでは13年余り夫は働いた。

 

 丁度息子たちは学生で、次男は金に飽かせて私立中学に行かせたものの不登校になり、すごい回り道をして、兄と同じ私立高校に進んでいる。夫は名ばかりの社長だが、稼ぎは良いので不貞、私は肝炎発症と、お金以外の不幸は付いて回ったが、在日韓国人らしく?節操のない金の使いようで、子供の教育費に大金を使い、海外旅行に行ったりと、堅実な生活はしなかった。

 

 そして時は過ぎて行き、今こうして低い額の年金で質素倹約に励む生活をしている次第である(笑)