何度も見合いをしていても、結婚に至らないが、親はどうしていたかと言うと、どうやら私を結婚させたくなかったのかもしれない。姉が結婚して、婚家先の帰りに電車で広い川の鉄橋を通った時のことだが、母が寂しそうにこう言った。

 「しまった、窓から石を投げるのを忘れた!」

 

 えっと母の顔を見ると「○○子が帰って来たい時に石を河の中に置いておけば、そこを通って帰って来れる」なんて、母が言うではないか。まるで、姉に戻ってきてほしいと言わんばかりである。その河の中に石を置くという行為が、韓国独特の考えなのかは分からないが、母の娘を嫁がせた寂しさを象徴するような話ではある。

 

 それに父も、姉が嫁いでからの一週間ほどは、何だか布団の中にばかりいたような気がする。姉が赤子の頃に祖母宅に行った後、父が韓国語で姉の事を○○ちゃんなんて言って偲んでいたことを母に聞いたことが有る。母と姉は年が近い、17歳ぐらいしか離れていないことも有って、取っ組み合いの喧嘩もしていたが、姉は私より母思いだったことは間違いないし頼ってもいた。姉は中年期に入院することが有ったが、母に泊まり込みで付き添ってもらっていた。私の方が薄情で、いつも文句や小言を言っていて、母は私を煙たがってもいた。

 

 私はと言えば、見合いの場に不貞腐れた態度で出かけて、先方の男性に「真剣な気持ちで、この場に来ていますか?」なんて、叱責される始末である。ひどい時は、見合い時に相手の顔も見ずに、二人で喫茶店に行くようにと促されても、ふくれっ面で帰って来た時もあるような、悪行の連続である。

 

 妙な言い方だが、遊ぶ男女たちには不自由はしていなかった。なにしろ、兄がいて、その兄は親分肌といいうより、兄貴肌とでも言うべきか、次々にグループを作って遊びの場を設けるので、私は若い男女のグループで、登山やスキーに何度も出かけていた。そのグループは、日本人の友人たちばかりだが、在日韓国人の方は、民団の集まりがあって、そちらは主に姉に連れられて出かけていたのである。

 

 仕事の方も忙しくて、おまけに夕方は洋裁学校に通っていて、毎日を目まぐるしく過ごしていた。

 それに高校時代の友人は、4年生大学を出た者も多く、浪人をした人もいて、彼女たちは23歳にしてようやく世の中に出て来て、定年まで働く意気込みで固い所に就職していて、結婚なんて程遠く、その友人たちとも遊んでいた。

 

 今、この年になって、あの時の見合い相手に謝りたいとつくづく思う。若気の至りと言うべきか、思い上がりと言おうか、何人も真面目な若者に出会っているのに、失礼な事をしたと反省している。

 どうせ、貧しい男と結婚して、義父母に抑えられる不幸な人生が待っているだけだと、勝手に思い込んでいた。結婚する意義を見つけられなかったのである。

 それに私は男に頼ったりおもねったりする生き方はしたくないと考えていた。  

 若い男女が手を取り合って助け合って生きていく、なんて信じてはいなかったのである。どこか斜に構えて、ある意味、無為に生きていたのでもあった。