私が結婚したのは、もう50年ほど前の1975年で、丁度沖縄国際海洋博覧会が催された年だった。何故そんなことを覚えているかと言えば、沖縄に新婚旅行に行ったからである。

 

 24歳の年まで、私は数えきれないほどの見合いを経験していたが、ようやく結婚に至ったわけである。19歳の頃から、見合い話は星が降るほど有った。その訳は、私がある種の人々の飯の種でもあったからである。在日の中年婦人にはこれぞという仕事は無くて、しかし結婚仲介人という真に具合の良い儲け話が有ったからである。結婚成立ともなれば、幾ばくかの礼金を貰えるし、見合いから結婚に至るまで食事やお茶の接待を受けられる。少なくとも見合い当日は、手数料や食事にお茶をふるまわれるかもしれないという、美味しい内職で有ったからである。適齢期の息子や娘を持った親たちは、同じ在日の若者と結婚させたがっていて、極端な事を言えば、在日同士ならば誰でも良いなんて考えていて、つてを頼りに結婚相手を探していたものである。

 

 そんなおばさん達は、私にしょっちゅう見合い話を持ちこんできたが、釣書なんて一度も貰ったことは無いので、あれは日本独特の風習なのかもしれない。とにかく、相手と会う日にちと時間を聞くだけであった。殆ど名前も職業も、当然学歴も知らない、と言うか私の親が聞かなかったのかもしれないが、ぶっつけ本番であった。

 

 一番最初の見合い相手だけはよく覚えているが、何と一歳年下の大学生であった。相手が年下だったので、私は呆れて尋ねたものだったが、彼が言うには「父親が高齢なので、早く息子を結婚させたがっている」らしかった。ひょっとして日本人の彼女がいて、親が別れさせるために見合いをさせたのかもしれないが、真偽は分からない。

 彼の兄は難関大学卒業で6歳年上だというので、私はそちらに興味を持って兄のことを聞くと、もう結婚していると言うので、即座に当の見合い相手に興味を失ったものだった。

 在日の親たちは、当時はとにかく日本人との結婚を恐れていて、日本人と恋愛する前に在日の若者と結婚させようと考えていた。

 

 その頃の友人たちは、私と休日に遊びに行く約束をする前には「その日は空いている?見合いは無いの?」なんて尋ねるのだが、今思えば笑い話である。

 母に見合いは嫌だというと「一度断ると話が途切れるかもしれない」なんて言いながら私の尻を叩く。母は、多分おばさん達の気持ちを知っていて、断れなかったのだろう。

 私は5人きょうだいの次女なので、嫁をもらう側からすれば、まことに具合の良い相手であるのだ。一人娘ならば大事に育てられた我儘娘かも知れないし、長女も弟妹の世話がついて来る。しかし貧しい家で子だくさん、そして次女という立場は、嫁に貰うには軽い存在なので、煮て食おうが、焼いて食おうが気楽なものである。

 とにかく、私の見合い経験は多かったが、私はいつも意固地になって、見合いには気持ちを入れずに数年を過ごしていたのだった。何だか見合いだけではなくて、人生に対しても拗ねていたのである。