昨日、2024年6月2日日曜日に、ある催しに参加して、何と出身高校の近くまで、20人余りでウォーキングをしたのである。

 前日のブログで、高校入学式の思い出を書いたばかりだったので、その巡り合わせに驚いた。まるで私の文が私をそこに連れて行ったと言えば大げさだろうか。滅多に行くことの無い場所なのにと思いながら、突如かつての通学路を歩いて行くと、入学式の帰りに「私にはかまわずに、立ち止まらずに歩いて行きなさい」と言わんばかりに、偶然出会ったモンペ姿で姉さんかぶりをした同じ在日のおばさんが、手を振り背を向けたものだが、まるでそのおばさんが道の曲がり角で佇んでいるように思えて、思わず眩暈をしそうだった。おばさんは道路清掃の仕事をしているらしく、清掃道具の倉庫らしき小屋の前で佇んでいたのである。

 その仕草は、私の晴れの入学式の日に、自分と立ち話をしていると韓国人だとばれてしまうから、関わらずに知らん顔をして行くのだと言わんばかりの、在日一世のおばさんの配慮の様に感じたものだった。

 

 今は日本と韓国は同等の国で、おまけに若い人たちは、韓国の文化を楽しもうとしているように見えるが、数十年前はそうではなかったのだ。

 曇天の下で、ウォーキング仲間とよもやま話をしながらも、私は昔の出来事に気を取られて、気もそぞろであった。

 

 義母の弟は早くに国籍帰化をしていたが、義母の話によると「差別が激しくて、弟は帰化せざるを得なかった」みたいに言っていたものである。どうやら国籍が違うと仕事が回ってこないように言っていた。その弟は他県の山間の地区で縫製の仕事をしていて、かなり遠方だが一度行ったことがある。夫婦でミシンを踏みながら、二人の息子を育てていた。

 

 私が住むところでも、ミシンで縫製仕事とか、通称”ヨコ”と言って、横編みの略だと思うのだが、編み機を置いてニット製品を編んでいた人たちが多かった。

 日本の会社や商店には勤めることの出来ない、差別の時代を生きて来た人達は、日がな一日、わずかな賃仕事をせざるを得なかったのである。

 

 「私たちにはかまわずに、自分たちの道を進みなさい」と示唆した先人の、生きて来た厳しい道を私は忘れない!

 そして改めて哀悼の意を表したい。