若い人たちには分からないだろうが、昔は”もっこ”と言って、縄などで編んだ四角い網の四隅につなを付けて、そこに棒を突っ込んで二人がかりで、土砂や農作物を持ち運んだものである。それとリヤカーも大変活躍したものである。

 

 在日韓国人一世は言葉が分からないので、主に肉体労働に従事していた。

 私が15歳の春のことだが、高校の入学式に珍しく母と連れ立って出席したのだが、式が終わっての帰り道に、道路の角の所に、柵越しに小さな空き地があって粗末な小屋が建っていた。どうやら周辺の道路の清掃のための労働者用の小屋らしかったが、その前におばさんが佇んでいて、母が急に「ぽっさん」と声を掛けたので立ち止まったが、今考えると、恐らく朴さん、ぱくさんと言ったのだろう。

 すると声を掛けられたおばさんは、私たちを見ながら手を振って、と言っても歓迎するための手を振るではなくて、知らんふりをしてさっさと行きなさい、という感じだった。母は尚も傍に寄って行こうとするのだが、そのおばさんは姉さんかぶりをした手ぬぐいで顔を隠すようにして、強く手を振る。結局私たち母娘は、何も言えずに歩き始めたのだが、後年私は何度もこの光景を思い返したものだった。

 

 丁度桜が満開で晴天の下、地元では進学校と目されていた高校に進学して、私も母も多分晴れやかな表情をしていたはずである。そのおばさんも、きっと近くの高校だったので、私が着ていた制服でその高校の入学式帰りだと気づいていたのだろうと思われる。

 モンペ姿で姉さんかぶりのおばさんは、まるで「私にかまわずに行きなさい」と言わんばかりだった。そのおばさんは私も見覚えがあって、恐らく祖母の年代だったと思うので、50代半ばだったろうか。

 一世たちの中には、若い世代に対して、韓国人だと知れないようにと配慮する人たちがいて、それ故の行動だったのだろうかと思わないでもない。そう考えると涙が出て来る。

 

 祖母も父も道路工事に長く従事していて、祖母には夏休みにはくっついて行って、道端で、火の番をしたものだった。小学3年生だったが、炎天下蓆を敷いて、小さな焚火を起こし、そこに黒くすすけた底が平らな薬缶を載せて昼食用に備えるのだった。祖母たちはもっこを担いで、道路を造っていたのか、補修をしていたのかは分からないが、現在の様に機械なんて無いので、殆ど人力で行っていたものだった。

 

 一世たちの汗にまみれた苦労の上に、今の私たちがいるのだと思うと、何とも言えない切ない気持ちになる。何だか、伏して許しを請いたい気持ちにもなるのである。