韓国には数回行っているが、最初に行ったのは三十年ほど前であるが、まだ仁川空港が無くて、金浦空港に降り立ったが、空港の前に大きな水たまりが出来ていたのを覚えている。路面がなだらかでは無かったように見えたが、雨上がりのせいだったのかもしれない。

 当時、組んでいた英会話サークルの仲間八人と、何故か海外に行こうとなって、英語圏は遠くて費用もかさむので、近場の韓国に行こうという結論になって、二泊三日で三万九千八百円のツアーで、江南のホテル二泊と航空機代が含まれていたが、食事は付いていなかった。

 私はその前に夫と台湾に行っていたので、二回目の海外旅行だった。当時はバブル経済全盛で、海外旅行は豪華で高価なものが多くて、台湾行きは四泊五日で、一人二十五万円を支払っている。その頃は、私たち夫婦は人生最大の稼ぎをしていて、そんな旅行も出来たのだった。

 

 ソウルでの一日目の夜の事だが、タクシーを探していて、あるタクシーを見つけたが、様子がおかしい。一人、二人と次々にタクシーに入って行くのだが、直ぐに出てくるのである。深夜の事で、他にタクシーも見当たらず、私たちはなす術もなくそれを眺めていたが、私はピンと来たので、丁度空になったタクシーに一人で入って行って、「マーノン(一万ウォン)でどう」みたいに言ったところ、若い男性ドライバーはOKみたいな素振りだったので、とりあえず半数の四人が乗って、ホテルまで行けたのだった。先に乗った客は、金額的に折り合わなかったのだ。乗って分かったことだが、ホテルまでは僅か五分ぐらいの距離だった。日本円で千円位を支払った計算になる。

 仲間の人たちは、私の機転に驚いていたが、私は何度も祖母や母が、「韓国ではタクシーの値段は交渉するのだ」と聞いていたので、ピンと来た訳だった。

 

 その旅は、ホテルの人たちにはとても親切にしてもらい、まだヨン様ブームの前なので、日本人旅行者は少なく、主に下心ある?男性客が遊びに行く時代で、中年おばさん八人組は、あちらこちらで歓迎された。まだ日本語が話せる人が沢山いて、道端で佇んでいると、日本語でどうしたのかと尋ねてくれる人もいた。その代わりに英語は全く通じなかった。

 大きなサウナで「大阪のタマチュクリ(玉造)に三年いた」と訛りのある日本語を話す若い韓国女性が懐かしく思いだされる。

 

 帰国後、その話を母にすると「みんな、喜んでいたのだね」なんて、嬉しそうだった。

 実際、往く時は”地球の歩き方”という本を携えて「韓国に日本人が行くと、石を投げられるかも」なんて、不安がる人もいたのだった。

 今の様に、女性たちが笑顔で気軽に行く時代が来るなんて、とつくづく時代の流れに驚くばかりである。