窮すれば通ず、事態が行き詰まってどうにもならなくなると、かえって活路が開けるものだ、と辞書に載っている。

 

 収入不安定な、稼ぎの少ない夫と見合い結婚して、それは承知の上での結婚だったが、息子が生まれても夫の職は安定しない。夫は調理師をしていたのだが、グループでしょっちゅう店を替わるのである。チーフの立場にいる人の意向で、あちらこちらと替わっていて、それが当たり前の世界らしかった。

 

 ところで20代後半の頃だが、かつて少しだけ一緒に働いていた人が、新しく商売を始めるとの連絡があって、夫の実家の電話番号を苦労して探して電話を掛けて来て、手伝ってくれないかと誘って来たのだった。その人は、資産家の息子さんでいわゆるボンボンで、昔は紡績で栄えた家の跡取りらしかったが、当然日本人で、しかし当時は紡績は既に殆ど壊滅状態で、資産が有るので、新たに飲食業を始めようと考えたらしかった。

 

 で、結局幼子を抱いて、夫と私の三人はこの地に移って来たのだった。

 アパートも用意してくれていて、今度は夫も順調に仕事が出来るかと思っていたら、経営者の男性があまりにボンボンで、商売が行き詰まることになるのである。サウナ付きの豪邸に住んでいたが、家庭的に問題を起こし、彼の奥さんは宗教に走りと、何だか、騒がしい生活の様だった。

 

 夫は又も仕事が長続きせずに、結果として流れ流れて、今住む地に越してきて、再びの不安定な生活に舞い戻る始末であったが、案外私たちは全然めげずに暮らしていたものである。二人目の息子も生まれて、家庭内での稼ぎを探していた私は、投稿原稿を書くということを思いついて、これが案外高収入をもたらしたのだった。

 ひと月に10万円稼いだことも有る。1980年代の収入にしては大したものだと思われる。5万円が二回で、二回目は源泉徴収までされて、一割の5千円が引かれていて、まるで作家気分であった。

 

 その後ある同人誌に誘われてのことだが、私が投稿原稿を書いていることが批判されたが、私は文学がどうのこうのと言うより、生活第一で、売文の方が大事だったのだ。

 純文学を目指す同人誌仲間は、私から見れば文章は整っているが、中身の無い自己満足の作品にしか見えなくて、直ぐに袂を分かったものである。

 理想を追い求めるのは悪い事ではないが、私は現実的な女なので、生活の糧としての作文業であった。

 有名な小説家を目指した彼らは、もう既にこの世にはいなくて、作品は日の目に当たらずに雲散霧消と消えている。私の拙い作文は、載った雑誌は衣装缶一杯に残っていて、今は色あせて茶色に変色していて、読み返すとあまりにヘンテコな文章で、よくお金になったものだとおかしくなって来る。

 食べて行くための売文は、ある意味においては、虚構の私の人生を示唆しているようでもあり、恥ずかしくさえあるが・・・。