戦後まもなくと言っても、私は1951年生まれなので、直後という訳ではないが、段々記憶が遠くなって来るので、ここに記しておきたい。

 

 近くの河には堤防も無く、大雨が降れば河から水が溢れて床下浸水、稀に床上浸水という住環境だった。1950年代の頃である。

 生まれた家は借家だが、瓦屋根の平屋の一軒家で、隣家との境には井戸があって、トイレは戸外に有った。トイレには古新聞紙を切って置いておくのが習わしで、私も見よう見真似で、時々古新聞を切って置きに行ったものだった。

 

 家は狭い路地に面していて、入って行くと、上がり框には3畳位の部屋が有って、奥には和室が有った。そこに末っ子の弟が赤子で寝ていたのを覚えているので、その家で親子6人(姉は祖母宅で育てられていて居なかった)で暮らしていたはずである。家のもっと奥に一段低く板の間が有って、緑色をしたガラス製の大きな酒だるみたいなものが置かれていて、父がそこから酒を一升瓶に小分けしていて、私もそれを真似てホースを咥えて酒だるから酒を吸い込むと、酒がホースから溢れる寸前で慌てて一升瓶に入れたりしたのを覚えている。

 後年、小学校の同級生に「あんたの家は酒屋をしていて、買いに行ったことが有る」なんて言われたことが有ったが、酒を造って売っていたのだろう。

 河の向こう岸には十数軒の掘っ立て小屋が並んでいて、そこの住人が常連の立ち飲み客で、可愛がってもらったのも覚えている。

 

 その時代は平和だった、と後に母が述懐していたものである。

 「お父ちゃんがオンナと別れて酒も飲まなくなって…」と懐かしそうに語っていたものだった。

 

 が、好事魔多しと言えば良いのだろうか?隣家から火が出て、我が家も全焼して、家の暮らし向きは一変するのだった‼

 その時、姉は小学4年生だったので、私は多分幼稚園生だったはずである。当時としては珍しく市立幼稚園に通っていて、園の行事の一環でお誕生会なんかがあって、母が末っ子の弟を負ぶって、皆に森永ミルクキャラメルを配っている写真も残っていて、穏やかな生活だったと思われる。

 

 しかし、火事以降は、怒涛の我が家の暮らしで、狭い借地にバラックを建てて、赤貧洗うが如し、の毎日が始まるのであった。

 まず父が結核に罹り長期療養、次男の弟も小児結核で入院と、堰を切るような苦しい暮らしで、ただでさえ、在日韓国人という重荷を背負いながらの生活が、もっと大変な生活になって行くのだった。