戦後、多くの在日朝鮮人や韓国人は帰国したらしい。しかし中には、帰国しようとして、韓国に近い九州まで行ったものの、色々な事情があって、帰国せずに九州に集落を作り残った人もいた、と在日の古老に聞いたことが有る。粗末な家屋の集落で、し尿の臭いがしたものだったと回顧する人もいた。

 

 私の住む町から少し離れた所に、線路沿いに細い坂を下ると”セゾンネ”と言われる小さな集落があった。舗装はされていないので、常にぬかるんだような地面で、数十軒ほどはなく、恐らく十数軒だろうが、在日の人たちの住まいが、平屋の長屋形式で有ったのを覚えている。時々母に付いて行ったが、そのうちに無くなってしまった。母の話によると、市が嫌がって、強制的に立ち退きをさせたらしかった。多分不法に土地を使っていたのだろう。

 戦後間なしには、一時期韓国人や朝鮮人が日本で生きるには、良い時があって、というか上位に立てた時が有って、その時には不法な土地の使い方をしても、文句を日本側は言えなかったらしいのだ。

 そのセゾンネ、韓国語で新しい町、と言う意味だが、行政側が用意したところに移って、今はもう跡形もない。

 

 夫が住んでいた、阪神間の結構大きい朝鮮人部落も今は無く、大きなマンションになっている。

 夫は、そこが嫌で、子供の頃から脱出したいと願っていたらしい。遊ぶのは部落内の子供たちだけで、日本の子供たちとは一線を画していたらしかった。「警官だって、この部落に入っては来ない」なんて夫は言っていた。小学生の頃、目が段々悪くなって黒板の字がよく見えないが、その日暮らしの親に言えるはずもなく、授業も分からないままの日々だったと言う。貧しさと差別の中で育ったのだろうが、そこは私と随分隔たりがある。私が住む町の人の大半は、優しく親切で、小学校と中学校の教師たちは、むしろ励まし助けてくれたものだった。だから、同じ在日でもかなり住み心地の温度差は有ると思う。

 

 私は、夫の住む朝鮮人部落が珍しくて、興味津々で、きょろきょろしながら歩いたものだった。自分が在日なのに、在日の生活が目新しくて、まるで物語の中を彷徨っているような感覚に陥ったのを覚えている。遠い父祖の地に紛れ込んだような錯覚に落ち入りもした。

 奥の方には、豚小屋の跡も有って、かつては共同トイレだったそうだが、私が行った時点では各戸に水洗トイレが設けられていた。

 

 家賃は五百円だと姑は言っていて、一生そこに住む気でいたが、ある日”この劣悪な環境を変えるのだ”と言う紙が送られて来て、一戸当たり二百五十万円の引っ越し金を貰い、それぞれ散っていく羽目になり、但し反対する一軒だけ残ったが、阪神淡路の震災で、亡くなったと聞いている。

 

 誰も知らない歴史の話で、誰も関心も持たないだろうが、せめて私だけでも、このネットの世界にこんなことも有ったのだと、残して置きたい。