内的自己分析 善悪の評価することで

 善悪の評価をすることで何が起きているかというと悪を受け入れられなくしています。これは自分の中の善悪評価基準があり、その善悪評価基準で人を裁いています。裁いたその評価で悪を受け入れられなくしています。相手が悔い改めない限り受け入れられないのです。相手が変わらないと受け入れられないという事態になってしまいます。これが愛の基準でしょうか?そうではないですね。それは分かっているのですが。その評価をすることでどういう表現をするかというと「怨讐を愛しましょう。敵を愛しましょう。」というのです。しかしこれはなかなか難しいですね。どうすれば良いか分からないでしょう。どうすればよいか分からないので祈るしかないのです。祈って少しは効果があるかもしれませんが、自分の悔い改めがありません。自分に原因があったなんて誰も思わないでしょう。だから自分が悔い改めて自分が変わる事をしないのでしょう。悪が悪い、敵が悪い、怨讐が悪いと何時までも思うからです。そこからどうして乗り越えるのですか?祈っても乗り越えられないですね。自分が悔い改めないといけないと気が付かない限りは無理ですね。私達はそれを繰り返しています。

 何を考えないといけないかというと善悪の評価基準を取り去るようにしないといけないということなのです。神様、サタンとか悪魔とかそんな言葉を使わない様にすることなんです。神様を使うでしょう。すると必ず反対の言葉があります。それが悪魔とかサタンですね。悪霊もいますね。それで何をするんでしょうか。これを書くと駄目なので書きません。悪霊を取り去るといいます。悪霊?ですか?責任を悪霊に置くんですか?自分の責任なのに、私の責任なのにそれを正当化するんですか?こんなこと書いたらビックリしますね。私を間違った人間だと必ず評価します。では正しい間違いは何処から来るんですか?善悪基準と同じように間違った人と評価すると愛せないでしょう。間違った人が悔い改めない限り間違った人を愛せないです。怨讐と同じですね。敵と同じですね。正しいと間違いというのは何を基準として評価しているのでしょう。それでもって間違った人を愛せないのです。どうして自分が悔い改めないといけないのですか?そんな理屈が通らないですね。

 何が起きているかというと自分で勝手に評価して愛せなくしているということなんです。これが概念で生活している人間の特徴なんです。なんでも頭で考えてしまうからです。評価という評価基準は一人一人が生活の中で学んで作ったものです。だから大体は同じなんですが、若干その評価基準の違いがあります。日本人は特に評価基準は厳しいですね。人との係わりで人に迷惑をかけてはならないと教育を受けいていますね。そして人に対して空気を読みながら人間関係を作ります。原理を学ぶとさらに善悪の評価基準が厳しくなるでしょう。そしてその犠牲者が子供達なんです。私はある祝福家庭の子供を見ていました。父親は原理にとっても忠実な人です。子供が悪いことするでしょう。原理に反することするでしょう。すると原理でみ言葉で審判するんです。その時に私はズタズタに切り裂かれた子供も姿をみました。可愛そうだと思いながらもどうすることも出来なかったです。私の子が友達になりましたね。私の子供が自発的になぜか知らないですが友達になってました。その家庭の子供達の表情も穏やかではないのです。心が痛いほど分かりました。私は原理の善悪基準というものは絶対に使わないようにしました。み言葉で正すなんていうこともしませんでした。言葉で正す事はしなかったのです。どうしてかというといわれて行う子供にはしたくなかったからです。自発的に自分で自覚し行う人間にしたかったからです。

 この善悪基準を撤廃しないといけないです。サタンはいません。悪の根源もなくなりました。「皆さんは、いつこのような八段階を経ましたか? (いいえ)。「その八段階はレバレンド・ムーンがつくり出したでしょう? 私には蕩減は必要ない」、そう思うかもしれないですが、人間の責任分担が事実ならば、人間の責任分担によってこのような形態の過程があるのです。堕落しなかったとするならば、二十一年の間に一度に自動的に越えてくるのですが、このように垣がふさがっているので一つずつ処理しなければなりません。サタンがまとめているので一度には処理できないのです。ですから、一つ一つ処理し代置させていく作業をしないわけにはいかないのです。(黒板に書かれながら語られる)そのようにすれば、サタンはいないのです。蕩減条件はないのです。堕落したのでサタンが生じたし、蕩減条件が生じたのです。その蕩減条件は人間の責任分担があるので、不可避的な過程なのです。」(牧会者の道、第四節 蕩減復帰と公式路程 2 八段階蕩減復帰路程)でいわれてます。サタンはいないと聞いてませんか?

 私達が勝手にサタンを作っているのではありませんか?それはよき正当化できる場所だからでしょう。そうしなければ自分に責任が来るからでしょう。私の責任にしたくないからです。よき隠れ家になるからです。私にはその様に見えるのです。私達の進む方向にそれがあるでしょう。

 感覚に戻れません。これを続ける限り自分の内側の感覚に戻れません。外的にサタンを作ると、罪を作ると、何があるかというとその評価基準が出来上がって自分を見つめれば見つめるほど、感覚の世界に入ろうとすればするほど罪深い人間になるのです。悪霊に支配された人間になるのです。だからキリスト教では罪人でしょう。深く見つめれば見つめるほど罪人ですね。だから十字架信仰が必要になるのです。そして私達は同じなんです十字架信仰があります。悪霊を除かないとそこに行かないと救われないでしょう。原因が自分にあるのに正当化する道を開いてしまっているのです。だから感覚に戻る事はできないでしょう。

 感覚の私から見ればその様な世界が見えます。何を持って「私の責任」にしているのでしょうね。その場所に行くことが「私の責任」にしているでしょう。それを信じることが「私の責任」にしているでしょう。どうやって悔い改めるんですか?これが私がどうしても認められない疑問なんです。「私の責任」はそれではありません。「私の責任」は何に責任を持たないといけないかというと自分の意識なんです。自分の意識を受け入れてないです。善悪の評価、正しい間違いの評価の根源は自分にある言を知らないからです。

 今日も書いてしまいました。皆さん気にしないでください。自分の信じる道を行ってください。これは私に対する忠告です。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村