お久しぶりです。

まあなんというかここ数年色々ありました。激動の時代です。

こういう時に注目されるのが陰謀論と言われるものですね。

コロナの裏には●●が、ワクチンには●●が、政治の裏に●●が……と。

そういうものを見るたび哀しくなりますね。ああ、人はどこまで「悲劇を喜び群がるのだろう」と。

ネットで陰謀論をもてはやしても、陰謀論を叩いても、何も変わらないんですよね。

そんなことでは人を、自分を救う事は出来ない。

結局は個人個人が、人の道理、天の道を少しずつ進んでいく事が大事なわけです、地道に。

 

さて今日も訓練。

私が原作をした「神の独占」を読んだ読者の方々が、「この話の霊能者の気を吸ったり吸われたりというのに心当たりがありますが、●●という霊能者でしょうか」とメールをくださった。それはは全く別の方だったので「違います」と返答しておいたが、そういう霊能者の話は心当たりある、という反響がいくつか来た。
ちなみにその方が言っている霊能者は、誰もが知っている有名霊能者の名前でした。
その有名霊能者たちのファンクラブにはいっていたが、やがてそれが怪しい悪質なペテンだと気づいて離れた。しかし霊能者たちからの念などで、自分や家族に悪影響が来ないか心配だ、という相談でした。
よほど大金つぎ込んで霊能者から名前を憶えられて親しくしたような、いわゆる「カモネギ」でないならば、いちいち霊能者も覚えて固執しないから大丈夫でしょう、と答え、自身を強化する基本行を伝えておきました。まあそもそも連中に「逃げた金づるに呪いや霊的攻撃をかける力」がそもそも無いのですが。
私に対して「死霊を送り付ける」と言ってきた霊能者様も何の力も持ってなかったし。

ちなみに、ちゃんと作中の「神の名を登録した宗教者」「法術を盗もうとすり寄ってきてた自称安部晴明の子孫」も実在します。いるんですよ、漫画のキャラかっていうような変な霊能者は。



 


十凪先生の作画で、漫画を出させていただいたわけですが、「本当にあった笑える話」にも作品を描かせていただきました。
その作中に、「霊能者や僧侶が水子が祟るから供養しろというのは悪質な霊感商法」と言及したのですが、クレームが来ちゃいました。それも出版社を介さず直接に。
いわく、「水子で救われている人もいるんですよ」とのことでした。なるほど、何も読んでいないか読解力が無いか。
作中で、「亡くなった子の供養は大切、手を合わせて線香の一本でもあげればいい」と言っています。そう、亡くなった赤子の供養を否定しているわけではなく、「わざわざ霊感商法の餌食になって高い金を詐欺師に貢ぐ必要はない」という、ただそれだけなんですよ。
そして、水子……亡くなった嬰児の霊はどうあっても親兄弟を呪い祟る事は絶対にありません。
「水子が祟る」と発言する霊能者、宗教者、占い師などは例外なく嘘つきか無知、そして偽物です。一人の例外もありません。

「あなたの子は産まれることが出来なかったという理由で親兄弟を恨み呪い、障りを引き起こすような、身も心も化け物です」

こう言っているのですよ、彼らは。
そしてそれを信じる人も、「うちの子供は化け物だ」と認めているわけです。
そして、「この常世と来世の安らぎ、幸せを願い供養する」のではなく、「自分が呪われないために除霊する」となってしまうわけです。これでは赤子は浮かばれないのではないでしょうか。

「水子で救われている人もいるんですよ」

これは、「救われている」のは果たして誰なんでしょうね?
自分に起きた不幸、不運をすべて水子に押し付けて、自分が救われたいだけではないのか?
「祟るから供養する」なら、祟らなければ供養しないのか?
水子商売という卑怯でゲスな霊感商法に喜んで飛びつく人たちは、よく考えてほしいものですね。
その上で、どちらを選ぶかはあなた次第です。

亡くなった幼子を化け物として扱い、霊能者や宗教にお金を払って自分の安全を求めるか。

それとも、真心を込めて手を合わせ、ただ常世と来世での安らぎを願うか。


選ぶのは、あなた自身です。
 

その立場にならないと人は理解ができない。|幡野広志|note(ノート) https://note.mu/hatanohiroshi/n/n454ca05522ed


 このブログ記事を読んで考えさせられた。法術には、「心は心を離れて認識することは出来ない」というのがある。それはわかりやすくいうならまさに、その立場にならないと人は理解ができない、ということだ。
 人間は、知らないことは想像できない。考えることが出来ない。「いやそんなことはない、知らない事も想像できる」という人は、たとえば「ぽげらんししきはっも」について想像してほしい。これがどういうものか、私は知っている。その私の知っている「ぽげらんししきはっも」を想像してほしい。ヒントは一切ない。想像できただろうか。
 無理であろう。仮に適当に想像したとして、それは私の知っている、正しい「ぽげらんししきはっも」とは全く別物だ。「貴方が知らないものは貴方は知らない」という当たり前のことが理解できただろう。
 ではこれにヒントをいくつか与えたとしよう。

 そうしたら、そのヒントから連想し、想像できるだろう。
 ヒントから連想するという事は、そのヒントの単語から、自分の記憶の断片を引き出し、パッチワークのように構成して、再現するという事だ。

 つまり、「知っていなければ」想像は出来ない。
 これは「ぽげらんししきはっも」に限った事ではない。
 人は体験し、理解した事しか知らないのだ。頭で知識情報として知ったつもりになっても、実際に体験し、心から理解し、体得しないと意味が無い。
 先のブログ記事に書かれた相談者の方は、自分の身内が「それ」を体験し、そしてそれを通じて自分が当事者になったことで、初めて自分のしてきたことを「体験」した。
 それでようやく、自分のしてきたことの重さを心から理解することが出来た。自分が体験したから、「他人の身になる」事が出来たわけだ。
 よく「他人の身になって考えましょう」という言葉がある。しかし、それは実践するのは難しい。その他人の立場を「体験」しないと、他人の身になって考える事は難しいからだ。強いイメージ力を有するか、実際に体験しない限り。
 体験は宝である。
 多くの体験を重ねることで、心は広がる。大きくなり、深くなる。他人の事も考えられるようになる。どうすれば人が喜ぶか、どうすれば嫌がるか、自分の事のように考えられるようになる。
 喜びも、悲しみも、怒りも、苦しみも、全ては自分を大きくるための糧だ。教師だ。
 殴られた痛みと恐怖と絶望を知らなければ、殴られた痛みと恐怖と絶望を想像できない。殴られた人がどのような痛みと恐怖と絶望を持つのか、知らないし想像できない。故に、考えなしに人を殴ることが出来る人間になれる、というわけだ。

 良い事も、悪い事も、多くを体験してほしい。ただし、「だから悪事を働いてもいい」という事では決してない。大切なのは、想像力、イメージ力を鍛え、養う事だ。一番いいのは、物語を読むことだ。想像しながら、イメージをえがきながら、主人公たちの人生を自分の出来事のように体験する。頭で読むのではなく、心で読んでいこう。

 そうすることで、少しでも、自分は、自分の心は広がっていき、自分を変えていけるはずである。

しばらく更新してませんでした。すみません。

先日、私が原作・監修をした単行本が発売となりました。

法術師・羽々桐鷹也の怪奇な事件簿

なんかこれが出てから、法術の入門希望者が増えたという話もあります。それが本当なら貢献できたという事でうれしいですね。

内容的に結構好き勝手やらせていただいたので、心霊オカルト好きの方には結構嫌われそうだとも思っていたのですが。