今回の記事は、直接的には「スピ系」ではないですが、どっかでつながっていると思います。
平田が、去年に共編書で出版した本の一章を以下に載せます。

「性(セクシュアリティ)」に対してスティグマを付与するという(性に、何か悪しきものが内在しているかの扱うような)価値観は、(一神教を背景に持つ)西洋の歴史の中に、根強く、根深く、流れ続け、巣食っています。

日本(をはじめ、西洋的な近代化を受ける前の(西洋以外の)文化)は、そのような価値観からは、比較的、自由であることが多いです。

日本も、近代化の洗礼を受けたあとに、「性(セクシュアリティ)」に対してスティグマを付与するという(性に、何か悪しきものが内在しているかの扱うような)価値観に、染まっていきました。

以下の文章は、日本における、性(セクシュアリティ)のスティグマ化を、「男色(衆道)」→「同性愛」の例をあげつつ、素描してみたものです。

長いので、その1、その2、その3の、三つに分けて載せます。


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10
章 日本における「同性愛」の歴史

 

「変態」という言葉の変質

 

 現代の日本で、同性愛を揶揄するような状況は、日常生活の中のいたるところで見聞きされる。ある中学生3年生のゲイの男子は、中学校の教員が述べた差別的な発言を以下のように報告している。

 

「女子生徒が、先生に冗談まじりに『変態だ!』といいました。先生は『バカ。変態っていうのは、男が男を好きになったり、そういうのを変態っていうんだよ』と冗談まじりに返しました。」(1)

 

 「変態」という言葉は、他人を揶揄する言葉として頻繁に用いられる。上述のように、「変態」の中には「同性愛」も含まれることがある。

 「変態」という言葉には、もともと「倒錯」というような意味合いはなく、「姿が変わる」とか「常態ではない」という意味しかなかった(2)。その「変態」という言葉が変容したのは、大正時代、1910年代から1920年代にかけての時期である。

 本章では、まず、変態という言葉の意味が変質した大正時代――「同性愛」という日本語が登場したのもこの時期である――の日本の状況をみていき、西洋化とともに、性(セクシュアリティ)に対する日本人のメンタリティが変わっていったことを明らかにしたい。

 1910年代から1920年代にかけては、複数の性科学者と呼び得るような人々が登場し、次々と通俗的な性研究雑誌や通俗性科学書が刊行され始めた時期である。この時期を称して「通俗性科学ブーム」と呼ぶ研究者もいるほどである(3)

 1913年に大日本文明協会から、クラフト-エビングの『性的精神病質』(原著は1886年刊)が『変態性慾心理』というタイトルで翻訳・出版されたことがそのきっかけになった。この時期の通俗的な性科学の刊行物の名や雑誌名には、「性欲」や「性」という言葉と並んで、「変態性欲」や「変態」という言葉が使われているのが目立つ。性的倒錯という意味の「変態性欲」やその省略形である「変態」という表現は、この時期に作られた新語である。先述したように、それ以前の「変態」という言葉には「姿が変わる」とか「常態ではない」という意味しかなかった。この「変態性欲」という言葉の定着とそれへの関心は、直接にはクラフト=エビングの翻訳書の影響によるところが大きかったと思われる。

 「フーコーのいう『倒錯的快楽の精神医学への組み込み』が、日本でも始まった」と文化人類学者の小田が述べるように(2)、この時期、人間の性欲を正常と異常とに区分し、「性倒錯」を「臨床的」に分類し、その倒錯の摘発や矯正を要求するという動きが生じ始めた。1935年、女性の同性愛事件にコメントを求められた精神科医斉藤茂吉は、「戒むべき同性愛 家庭の注意が大切!」と読者に訴え、さらに、同性愛を仮性同性愛と真性同性愛とに分け、後者について「病的で前にいったやうになかなか治らない、かうなるのは家庭的にも欠陥のある場合があるから保護者はよく注意してほしい」と述べている。近代西洋的ホモフォビアの刷り込みが、日本の医学者に対して威力を効し始めたことがうかがえる。

1920年頃を境に、性(セクシュアリティ)をどうとらえるかという日本人のメンタリティは、それ以前のあり方とはうって変わってしまったようである。それまでの日本には、「変態性欲」や「性倒錯」という概念はなかったのであるから。

 同時に、今で言う「内在化されたホモフォビア」も、この1920年頃に出現する。社会学者の古川誠は、田中香涯という性科学者が1920年代に発行した『変態性欲』という雑誌に匿名の「同性愛者」から寄せられた次のような手紙を紹介し、「悩める『同性愛者』が、大正時代に誕生したことが確認できる」と述べている(3)

「……此の自分の変態な恋に苦しむ『辛さ』を或は此方面としては有り触れた事かも知れませんが書き綴って、理解深き先生に打ち明けて、せめてもの心やりとしたいと思ひます……先生の科学的な立場から離れて、此不幸に生まれて来た自分を憐れんで下さい……先生何とかならないものでせうか。実に苦しいのです。」

 同じ雑誌の別の号には、「同性の裸体、ことに生殖器を窃視することに快感を感じることに悩んでいる」という匿名の人物からの手紙に、「御恥ずかしい話ですが、変態性欲の所有者で御座います」と書かれていたことも紹介されている。

自ら「変態性欲の所有者」だと称し、自分自身の存在をおとしめる「同性愛者」が、この頃登場したわけである。――はたして、大正時代以前の、「男色」や「衆道」を実践していた人々は、このように自らの存在をおとしめて捉えていただろうか。現代の日本にみられるホモフォビアは、大正時代、1920年頃に生じた日本人のメンタリティの西洋化に由来する部分が大きい。

21世紀の現在、欧米では、ドメスティック・パートナー制度や同性婚などの法制度が整備されつつあり、ホモフォビアの影響力を払拭しようという動きがさかんにみられる。それに対し、日本ではいまだに大正時代的なホモフォビアが根強く残りはびこっているように思える。もともと西洋的概念であったホモフォビアが、当の欧米ではそれを払拭しようとする運動が公的な成果をもたらしているのに対し、それが輸入された先の日本は、いまなおその概念に縛られその影響の下に捕えられているといえる。

 

II 「色」から「愛」へのシフト

 

 比較文化学者の佐伯は、「江戸時代の日本では、男女間、あるいは同性間の好意を表現するのに、主として『色』や『恋』や『情』といった言葉を使っていた」と指摘し、「今私たちが当たり前のように使っている『愛』や『恋愛』という言葉は、明治になって、英語の『ラブ』という言葉の翻訳語として使われ始めたものであり、『文明開化』の日本にふさわしい新たな男女の関係を表現するという、輝かしい期待を担った登場した言葉であった。それは、江戸時代以前に日本が使っていた『色』や『情』という表現とは異質なものとして、『西洋』への憧れと一体となって、明治人の心を魅了したのである」と述べている(4)

 佐伯は、「文明開化」当時の「恋愛」の概念の特徴を、従来から日本にあった「色」と対比して、次のように図示している。

 

「色」                                          「愛」

一対多 または 多対多            一対一

肉体関係の肯定                          肉体関係の排除、精神的関係を賛美

結婚外                                        結婚内

非日常                                        日常生活

 

 精神と肉体とを分離せず両者を包摂していた「色」という考え方が、「文明開化」以降、両者を分け、精神のみを重視する「愛」という概念へと変化していった。また、「色」には、「ハレ」という非日常の時空間を体験するという意味合いがあったが、「愛」という概念では、その意味合いも変わっていった前川は、明治時代に「恋愛」という翻訳語が「結婚」と結びつけられるようになり、当時の男子学生たちの間に「恋愛―結婚―家庭」という幸福イメージが浸透していき、それが「学生男色」を解体させる一つの要因となったことを指摘している(5)

 前述のように、「同性愛」という日本語自体、大正時代につくられた翻訳語であり、それ以前の日本では「男色」や「衆道」という言葉が、男性同士の(性愛も伴う)関係性を指すのに使われていた。 大正時代に、「男色」が「同性愛」に取って代わられたわけである。佐伯の言う「色」から「愛」へのシフトがここにも見出だせる。