午前二時。
彼女の見慣れたはずの寝顔が、なにかすごく特別なもののような気がしている。見慣れる以前ですら、こんなにも美しいと感じることはなかった。容姿に関して言えば、人並みを決して上回らないレベルでしかない彼女だからだ。
そんな彼女を、なぜ、こんなにも美しいと感じてしまうのか。昨夜、なぜ、いつにないほど彼女を求めてしまったのか。答えはわかっていた。
おれは今日、彼女に一言もなく、ここを去らなくてはならない。
去らなきゃならない理由は、正直なところ、ひとつだってない。要するに、去りたいわけではない。けれど、今日をどこでどんな風に過ごそうと、結果的におれは、彼女のもとを去ってしまうはずだ。
数ヶ月前から、ずっとこの日が来るのが怖かった。数週間前からは、目に見えてそわそわしていた。彼女も、様子のおかしいおれに気づいていた。一度だけ、心配そうな顔で、なにかあったのかと訊かれた。
けれど、話していない。笑って、黙って、普段通りを装った。
去る理由はない。しかし、話せない理由は、明確にあったからだ。
おれと彼女が七年前交わした、ある約束がある。彼女はその約束を憶えていないが、今日起こることに関わる一切を話せなかったのは、その約束に縛られてだ。
今日が近づくにつれ、日に日に、彼女に全て打ち明けてしまいたいという思いは強くなっていった。いっそ話してしまおうかとも、幾度となく考えた。けれど、その考えが浮かぶたび邪魔をするのは、おれの記憶だ。約束を破ることをよしとしない彼女の前で、しかも彼女との約束を破ることは不可能だった。
今日の夕方、おれは彼女に買い物を頼まれ、家を出る。それから帰らない。このことは変えられない。
おれがいなくなったら、彼女は泣く。自惚れているわけではない。彼女との記憶が、おれに教えるのだ。
彼女を守ると誓っていながら、守れないわ、泣かせてしまうわ、自分の無力さに腹が立つ。腹が立つではすまないほどに。
行きたくない理由は、挙げればきりがない。たくさんある。それに対し、行かなければいけない理由はないに等しい。約束のみだ。
だけど、行かなければならない。
過去のおれと、未来の彼女のためにだ。
自分のためなら、彼女を泣かせたりはしない。それぐらいの意地なら、おれにだってある。
ならば、過去の自分のために旅立つというのは、おかしな話かもしれない。矛盾があるかもしれない。けれど、過去のおれは、今のおれとは全くの別人だ。この旅は『彼のため』であって『おれのため』ではない。屁理屈としか思えないかもしれないけれど。そして、旅立ちたくはないけれど、おれがいない世界で泣く彼女を、彼がなぐさめてくれることを、おれは知っている。
後のことを全て彼に任せて、おれはこの世界を去る。
彼は信用に値する。だから、彼女の心配はない。
それをわかってはいても、割り切れない思いもある。やはり、愛する女性と他の男が一週間も一つ屋根の下に暮すというのは、気持ちのいいものではない。それを阻止できないのも悔しい。
だから、少なくとも今だけは、彼女の中をおれで、おれの中を彼女でいっぱいにしておきたい。互いの中に、互いの占める場所があることを実感していたい。
おれの方を向いて眠る彼女の唇に、そっと自分の唇を重ねてみたりする。いつ見ても、すべすべの柔らかい唇だ。
髪や頬に触れたりしても、彼女は目を覚まさない。幸せそうな顔で、すやすや眠っている。
できることなら、そんな彼女の寝顔を永遠に見つめていたかった。彼女の長い髪の甘い香りに包まれていたかった。
一睡もできないまま、夜は明けた。