子どもとの会話って、いつからこんなに「意味のあるもの」にしようとしていたんだろう。
子どもが何か悩んでいそうなら、ちゃんと話を聞かなきゃいけない。
困っていることがあるなら、気持ちを整理できるようにしてあげなきゃいけない。
何かうまくいっていないなら、一緒に考えてあげなきゃいけない。
そんなふうに思っていた。
息子に言葉の遅れがあったことも関係しているだろう。
小さい頃から、うまく言葉にできないことがあれば、私が汲み取ってあげなきゃと思っていたから。
何を言いたいのか。
何に困っているのか。
周りの子と少しでも近づけたくて必死だった。
その癖が、いつの間にか大きくなっていたのかもしれない。
だからただ話を聞くだけでも、心の中ではその先を考えて
「それって、どういう気持ちだったの?」
「じゃあ、次はどうしたい?」
「こういう方法もあるんじゃない?」
って。
今思えば会話というより、ちょっとした仕事だった。
もちろん、本人が話したいときには聞きたいし、
一緒に考えてほしいと言われたら、考えたい。
でも子どもが何も求めていないのに、
親のほうから「教えてあげる時間」にしようとすると会話はいつの間にか別のものになってた。
子どもを知るためだったはずなのに、
いつの間にか「子どもを前に進めるための会話」になっていく。
そして私は子どもと話しながら、
きるだけ困らないようにしてあげることばかりを考えてた。
そうやってちゃんと直してあげようとしていた頃、
「母ちゃん、何もわかってない」と言われることがあった。
そりゃそうだ。
私が一生懸命考えていたのは、目の前のこの子の気持ちより、「この子がこの先困らないためにはどうしたらいいか」
だったのだから。
それに気づいてから、
私は「何をしてあげるか」だけじゃなくって
「何もしないでいられるか」を意識するようになった。
何も答えが出ていない時間。
ちょっと頼りなく見える時間。
そういうものをすぐに埋めなくても、親が先回りしなくても、子どもは子どもなりに自分の足で歩く瞬間をちゃんと持っていた。
その瞬間を邪魔しないために、
あえて手を出さない。
親にできることって「何かする」だけが、子どものためじゃない。
そう思えるようになったら、親の仕事って思っていたよりずっと少ないのかもしれない。
そしてそのぶん、私の人生がいっぱい戻ってきた。
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