海音です✢
私たちは日常の中で、知らず知らずに人を評価しています。
「ちゃんとしている子」
「優しい子」
「がんばってる子」
「しっかりした子」
「普通の子」
どれも、一見すると優しい言葉に聞こえます。
でもよく考えてみると、そこには必ず「基準」があります。
「こういう子がいい子」
「こういう姿がちゃんとしている」
という自分や誰かが決めた物差し。
そして、その物差しがあるということは、
「じゃあ、その枠から外れた子は?」
という影も、同時に生まれてしまう気がするんです。
もちろん、人は何かを判断しながら生きています。
それ自体が悪いわけではなく、いつの間にか「評価」が「その人自身を見ること」にすり替わってしまうことがある。
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で、こんなことを書いている私自身が全然「ちゃんとしている人」ではありません。
家事をサボるし、いちいち面倒くさいと思う。
疲れて子どもにイライラして、感情的になってしまうことだってあります。
「ちゃんとした母親」の見本からは、たぶんかなり遠いところにいます。![]()
それなのに、不思議なんです。
自分はそんなにちゃんとしていないのに、
いつも心のどこかには
「ちゃんとしなきゃ」
という声がある。
ちゃんとした親でいなきゃ。
ちゃんと子どもを育てなきゃ。
そんなふうに、自分を追い立てている自分がいる。
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先日、ある方たちのお話を聞く機会がありました。
それぞれ歩いてきた道は違う。
考え方も感じ方も、違う。
でもお話を聞いていて、私の中に何度も浮かんできた言葉がありました。
それが、「ちゃんと」でした。![]()
人は、自分が大切にしたいと思う「ちゃんと」を持っていると思います。
約束を守りたい。
丁寧に仕事をしたい。
誰かを大切にしたい。
そういう「ちゃんと」は、自分自身を支えてくれるものなのかもしれません。
でも一方で、
嫌われないため。
期待に応えるため。
認めてもらうため。
そんな「ちゃんと」は、いつの間にか自分を縛ってしまうことがあります。
「こうしなきゃ」
「こうあるべき」
気づいたら自分の気持ちよりも、誰かの評価を優先してしまうとしたら。
その「ちゃんと」って、いったい誰のためなんだろう。
誰かに認めてもらうためのものなのか。
それとも、自分が大切にしたいものなのか。
その違いは、とても大きい気がします。
だから、最近こんな言葉が心に浮かびます。
「自分が壊れてまで守らなきゃいけない『ちゃんと』なんてない」
この言葉は、不登校の子どもだけに向けたものではない気がします。
「ちゃんと育てなきゃ。」
「ちゃんとした親でいなきゃ。」
そうやって自分に厳しくし続けている私たち親にも、そっと向けられている言葉なのかもしれません。
完璧じゃなくても、失敗してもいい。
誰かの決めた「ちゃんと」から少しくらい外れてもいい。
大切なのはその「ちゃんと」は本当に自分が心地よくて選んだものなのか。
一度立ち止まって、自分に問いかけてみることなのかもしれません。
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