ジョーカー、観にいきました。
もう観てから二週間ぐらいは経ってるけど、なんとなく今、感想を書こうと思った。
というのも、私自身は結構な熱量を持って観に行ったわりには、(結論から言ってしまえば)作品が良いか悪いかの評価は別として、そこまで楽しめなかったのである。だからこそ、あの映画は「何」だったのか、改めて思い至るのに少々の時間が掛かったのだ。
今はネットフリックスやAmazonプライム・ビデオが台頭し、家にいても映画が楽しめる。それどころかオリジナル作品も豊富になり、人気作品の続編なんかもサービス限定の公開が多くなり、インターネット配信サービス独自のコンテンツが楽しめるようになっている。(『コブラ会』みたいなベスト・キッドの続編が、YouTubeプレミアムでしか観れないなんて・・・!)
そんななか、わざわざ映画館に足を運んで、1800円という額を払って、映画を観に行くという人が一体どれだけいるだろうか。『ジョーカー』は、確かにその作品性そのものは、我々を映画館に足を運ばせるほどの魔力を持っていた。
本来はたかがアメコミのいち悪役だったジョーカーが、一つの作品として重いテーマと共に描かれるのだ。
マーベルヒーローズやクリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズのように、作品性の高いアメコミ映画はひと昔前から増えてはいた。それだけアメリカでも、映画以外のサブカルチャーが見直されてきたのだろうか。
しかしそれでもなお、今回の『ジョーカー』の公開は、キャッチーでセンセーショナルだった。サブタイトルもなく、狙いすぎたキャッチコピーでもなく、あえてアメコミ要素を排してるかのような広告デザインは、「バットマン」というコンテンツの持つ芸術性を、一つの映画作品として際立たせていた(気がする)。
とはいえ、別に私自身は映画評論家や文化人を気取ったりするつもりもないし、言うほど映画好きでもないし、映画そのものを高尚な芸術文化である必要があるとも思っておらず、あくまで映画も大衆エンターテイメントのひとつに過ぎないと考える。
だからこういったいわゆる「考えさせられる系」を匂わせるコンテンツでも、私自身はただただ人間の欺瞞やキレイゴトを全力で馬鹿にしながら人を殺しまくるジョーカーを観に行きたかっただけなのだが、『ジョーカー』はそれを許してはくれなかった。
今回の『ジョーカー』で描かれる「ジョーカー」の(とても頭の悪い書き方だ・・・)特徴は、明らかな障害者として描かれていることだ。まさに全世界で人気となった『ダークナイト』のジョーカーのような、人々の欺瞞を嗤い、希望を打ち砕き、そのなかで人間の心の暗部を暴く、カリスマとしてのジョーカー像はあまり、というかほとんど強調されていない。それよりは、腐った社会の鬱々とした空気感が前面に描かれる印象だ。
人を笑わせることが好きなアーサー・フレックは、いかにして「ジョーカー」と成り果ててしまったのか。
実は、人を笑わせる、笑顔にするという欲求そのものが、アーサーが母から「強制」させられた呪いじみた「命令」だったのではないか。と感じた。
以前私は、ある人から「最近の人は、映画やアニメをみるときにセリフや行動だけで解釈しようとする傾向がある。」という話を聞いた。あたりまえだが、映画やアニメはセリフだけでなく映像がある。俳優の演じる動き、表情、声、カメラの写す対象、アングル、音楽、構成、すべてを以ってはじめて「表現」された「作品」となるわけだが、例えば音楽ひとつにしたって、歌詞だけではなくて、音源のメロディーや声を使った歌い上げで感情や思いを表現したりするからこそ、歌手のことをわざわざ「アーティスト」と呼ぶのだろう。しかし、いずれにせよ作品を作るクリエイターがおそらく一番最初に習う基礎の基礎は、「セリフで全部説明しちゃうのがこの世で一番ダサいこと」である。
話が逸れてしまったが、それらのことを踏まえた上で、もう一度『ジョーカー』を観てみると、冒頭わずか数秒のシーンで、アーサーがクラウン(いわゆるピエロ)のメイクをしているときに片目から涙を流していた。セリフだけ聞いてしまうと、アーサーは心が優しくて、元々は悪いことができない人間のようにみてしまいがちだが、そういう人格も、もはや育ての母親から洗脳されたものであることが、映画を観ているうちに徐々にわかってくる。嫌なこと、つらい感情が起こると笑ってしまう症状は、精神的な障害や、ノートに描かれた文字のスペル間違いからうかがえる知能障害だけではない。彼の「ははははははは」という笑い方は、劇中のほとんどは明らかに負の感情を抑圧した笑い方なのだ。それを上手く表現したホアキン・フェニックスも見事だが、映画が終盤に向かうにつれて、妄想と現実の境界が曖昧になりながらも、人を殺すことで自身の感情を「開放」させ、笑い方が変質されていく展開は観ていて確かにゾクゾクした。彼が心から笑ったのは、ラストシーンのアーカムアサイラムで新しいジョークを思いついたときだけだとインタビューでは語られている。
私は確かに『ダークナイト』の「ジョーカー」を期待して観に行った。だからこの映画は楽しめなかった。しかしこの映画は良作だと思った。映画の最後でアーサーは「ジョーカー」となり、彼の感情は貧困と病、差別のなかで苦しんだゴッサムの市民たちに瞬く間に感染していった。暴動が起こり、ゴミだらけだったゴッサムの街が炎に包まれていく。その光景には不思議な美しさがあった。
この映画では様々な「患者」や障害を持った人々が登場する。アーサー自身と彼の母親もそうであるし、小人症の人、知能障害の人たちがいる。アメリカでは様々な人種が暮らしている。多様性の共存する社会は確かに理想ではあるが、そこに教育や貧困の差があれば、ぶつかり合い、憎み合い、無視をするようになる。上流の人間はストレスのはけ口として、そういった下流の人間達を攻撃する。
自分はこんな人たちを笑わせるためにコメディアンの夢を追いかけているのか?チャップリンの『モダンタイムス』を観て笑うような、哀れな人間をあざ笑うような人間達を笑わせるために?馬鹿げている。母親の愛も幻想だ。俺の父親がトーマス・ウェインだって?彼からは何も与えられなかった。強いて言えば、この地獄のような人生を与えられただけだ。まさに俺の人生は、皮肉にまみれた「ジョーク」だ。
そう聞こえてくるほど、私自身もこの映画での「ジョーカー」と感情を共有してしまっていた(気がした)のだが、ラストシーンで精神科医にジョーカーがこれまでのいきさつを話し、最後に「それも人生さ」と締めくくるセリフがあった。つまりこの映画で描かれたお話そのものが、ジョーカーによる「ジョーク」であったのかもしれない。作品を観て、ジョーカーに共感した人たちをもあざ笑うかのような、そんな作品だったようにも思える。
もう一度言うが、私はこの映画におけるジョーカーを期待して観に行ったわけではなかった。しかし、この映画は思った以上に「ジョーカー」していた。アリかナシかで言えば、当然アリだ。期待はずれという声も多くあるようだが、これから観に行く人には、どうか先入観を捨てて、悪のカリスマとしてではなく、一人の人間の皮肉にまみれた生き様を観に行ってほしい。

