「クリスマス―それは喜びのギフト」
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」 クリスマスのこの時、私たちに響き渡るメッセージです。あなたのために、その隣の人のために、そして人類すべてのために、今日私たちの心の中で救い主が産声をあげています。長年教会生活を続けてこられた方にも、初めて教会に来てくださった方にも。いのちの誕生は何回経験しても、まるで初めてであるかのように新しく、美しく、神秘であるのです。 イエス・キリストの母マリアが出産を控えていた時、生まれ故郷の町に行き、人口登録をするように時の皇帝アウグストゥスの命令が下りました。マリアと夫のヨセフも生まれ故郷のベツレヘムへ向かいました。 1週間の長い旅の末ベツレヘムの町にやってきた二人。町の中は住民登録のためやってきた多くの人々でごった返していました。宿屋はどこもいっぱいで、もう今にも子どもが生まれそうなマリアが腰を落ち着けられるところはありませんでした。やっと泊めてもらえたところは、家畜のいる馬小屋であったのです。その夜、主イエスの出産に立ち会ったのは夫ヨセフ、そして家畜たちだけでした。全世界の民を救うと預言されていた救い主の誕生は、あまりにもひそやかで慎ましいものでありました。 しかし、聖書は、あたたかな家で生まれることもままならなかった救い主の誕生こそ「大きな喜び」であると言います。そして、神はこの喜びの知らせを同じように貧しくまともに雨風をしのぐ生活もできない羊飼いたちにまず知らせようとなさいました。 主イエスが誕生した日の夜、羊飼いたちは荒れ野で夜通し羊の番をしていました。生き物相手の仕事ですから、365日24時間彼らに休みはありません。私も福祉の仕事をしており、カレンダーの休みとは関係なく働いているので、テレビでGWは10連休などと特集されるととてもうらやましく感じます。 しかし、羊飼いたちは私よりももっとわびしく、疎外感を強く感じていたに違いないのです。なぜならば、彼らは当時ユダヤ人であれば守らなければならない律法に定められた安息日を守ることができなかったからです。彼らには安息日にはあらゆる仕事をしてはならないという掟を守ることができません。そんな羊飼いという仕事はユダヤ人から忌み嫌われ、羊飼いたちは「強盗」や「野蛮人」と同列に扱われ、「汚れた者」としての烙印を押されていました。ゆえに、彼らは町に住むことも許されず、ユダヤの共同体から締め出され、夜通し働いて荒れ野で野宿をすることを余儀なくされていたのでした。 貧しく、孤独に身を縮めて生活するしかなかった羊飼いたち。暗闇の中、わずかな灯を頼りに羊たちを危険から守っていたのです。夜通し働き疲れ切った彼らの上に昇る朝日は、彼らの魂を照らすことはありませんでした。私は特別養護老人ホームで介護士をしていた時、夜勤は一人で働いていましたが、ろくに休憩もとれずに働き、朝日が昇り始めた時になんとも言えない切なさを感じたことを思い出すのです。明るくなってきた安堵と、なんとなく取り残されたかのようなわびしさと、利用者の排泄と起床介助という夜勤で最も忙しい時間帯に入るプレッシャーと緊張感がないまぜになったかのような、そんな思いがしたものです。汗と排泄物にまみれ、「くさい」「きたない」「きつい」と言われる3Kの仕事をしていた私には、羊飼いの気持ちが少しわかるような気がするのです。 羊飼いたちは自分たちの人生に光が照らされることは生涯ないと思っていたことでしょう。毎日その日食べるものを得るためにあくせく働き、人々が働き始める時間にやっと眠りにつく。そんな生活を死ぬまで続けるだけだ、そう思っていたかもしれません。そんな羊飼いたちに突然天使が近づいてきたかと思うと、神の栄光の光が輝きました。天使――神の使いを見るということは、神を見たことと同じです。そして、神をその目で見た者は死んでしまうと考えられていました。羊飼いたちは「非常に恐れた」とありますが、直訳すると「大きな恐れを恐れる」です。彼らは死の危険にさらされ、言葉に尽くしがたい恐怖に襲われました。「ああ、罪深い私たちの人生はここで終わるのか…」そんな思いが脳裏をよぎったかもしれません。そんな羊飼いの恐怖を破る言葉が天使から発せられます。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」。 聖なる律法を守ることもできず、ユダヤ人と交わって生活することもできず、家畜の臭いと汚れにまみれていた自分たちが救われるなど到底ないと思っていたのに、そんな自分たちのために救い主メシアがお生まれになっただって?羊飼いたちにとって晴天の霹靂であったに違いありません。そんな彼らに向かって、天使はこう予言します。「あなたがたは布にくるまって、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 これまでイスラエルはアッシリア、バビロンといったさまざまな国や民族に圧力をかけられ、滅亡の危機に追いやられてきました。そしてこの時代、イスラエルはローマの支配下に置かれていました。これまで常に他の国に脅かされ、滅びの危機にさらされてきたイスラエルの民は他国の支配を打ち破り、自分たちを力によって解放するメシアが現れると信じていました。 そんな力と権威に満ちているはずの救い主が、家畜が餌を食む飼い葉桶に寝かされている?今見ている神の栄光とは程遠い姿です。そして、それこそが救い主であるという「しるし」であるというのです。多くのクエスチョンマークが羊飼いの頭を駆け巡ったことでしょう。 するとさらに天の軍団が現れ神を賛美し始めたのです。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」 神の御心にかなう人に平和があるように。そう言って天使たちは去っていきました。神の眼差しは、今日という一日を生きることに必死で先のことなど考える余裕も権利も与えられていない羊飼いたちに注がれていたのです。そして、彼らこそ「救い主の誕生」を拝するべきだと神が選んだ人たちでありました。人々から忌み嫌われていた社会の底辺にいた羊飼いたちに、真っ先に福音――喜びの知らせを伝えたいと神は願われたのです。あなたがたを救うメシアの誕生。大いなる喜びというギフトを贈りたいと。 天使が去った後、羊飼いたちは我に返り、天使の予言が成就するのを見に行こうと立ち上がりました。暗闇の中、毎日同じことの繰り返しに倦み疲れていた羊飼いたちの心に、立ち上がる力が与えられたのです。大きな変化の兆しを驚きながらも受け止め、前に進もうとするエネルギーです。そして急いでベツレヘムに向かい、あちこちの家々、家畜小屋を捜し回り、ついに乳飲み子イエス、ヨセフとマリアと出会ったのでした。 イエス・キリストは天使のお告げ通り、飼い葉桶に寝かされていました。馬のにおいが染みつき、硬くて到底横になるに足りない飼い葉桶に、救い主は寝かせられていた。そんなわびしさなど知らぬかのように安らかに、時々手足を動かして、「あぶあぶ」と言葉ともつかぬ声をあげて。 私たち人間がつくりだした生きづらさ、差別、孤独を包み込み、こんな数えきれない罪にまみれてなお、神に造られた「いのち」は美しい、と体いっぱいに表現する赤子の姿がそこにはありました。「あなたのいのち、その輝きは美しい」。主イエスは、飼い葉で安らかに眠りながら、今もそう語り掛けてくださっている。その語りかけを羊飼いたちも聴いたに違いありません。だから、人々から差別と冷たい目を向けられていた彼らは、これまでの痛みと恐れをはるかに凌ぐ大きな喜びに突き動かされ、人々に救い主の誕生を告げて回ったのです。皆、羊飼いたちの話をいぶかしみました。信じない人々がほとんどであったでしょう。しかし、もはや羊飼いたちはそんなことで傷つくことはありませんでした。神が私たちを救い主と出会わせてくれるほど大切に思ってくれているという喜びは、羊飼いから奪われることはありませんでした。そして、人々に救い主の誕生を告げ知らせた後、神を賛美しながら帰っていったのでした。 これが、神からの喜びのギフトです。「あなたのいのちは輝いている」。暗闇を照らす救い主のいのちの光によって。美しく、美しく、輝いているのです。 今、独りぼっちで涙をこらえているあなたに、 誰かと関わることを怖がっているあなたに、 体も心も寒くて、途方に暮れているあなたに、 この知らせは届けられます。イエス・キリストが小さくて、やわらかくて、貧しい姿で、言葉にならない産声を上げて、赤子としてこの世界に生まれてくださった。それは、私たちの言葉にならないありとあらゆる魂の叫び、人の「生と死」を理解し、分かち合い、ともに歩むためです。イエス・キリストはこのような名で旧約の預言者から預言されています。「インマヌエル」。神は我々とともにおられる、という名前です。この出来事を私たちに、今まさに実現するために主イエスはお生まれになったのです。「きょう、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主メシアである」。 あなたとどんな時でも離れず一緒にいたい。ともに語り合い、この世の生が終わっても永遠に続く関係をあなたと持ちたい。イエスの誕生は神からのそんな願いの成就でありました。 主イエスを通して、神は永遠にあなたとともにいたいと願われました。この方、イエス・キリストを私の救い主と信じて受け入れる人は神の子とされ、主イエスと悲しみも苦しみも、もちろん喜びも楽しみもともに分かち合い、ともに歩む人生が拓かれるのです。 主イエスは私たちの上にたちはだかり、神の愛をはねのけている罪という大きな壁を打ち壊してくださいました。それが十字架の死と復活です。イエス・キリストは私たちの罪をその身に負って十字架上で死なれ、3日目に復活されました。死を打ち破り、神の民である私たちの罪という鎖はもはや断ち切られ、自由と解放が与えられたことを証明されたのです。 もう、私たちと神は遠く離れてはいません。イエス・キリストが主なる神様と私たちの間に十字架という橋をかけてくださったからです。だから、神はあなたのすぐ隣におられます。目に見えなくても、感じられなくても、「愛」や「真実」が目に見えなくても確かに存在することを私たちが疑わないように、神は確かに私たちのすぐそばにおられるのです。 一年で最も誰かとぬくもりを分かち合いたいと願うこの季節、それがかなわない苦しみと孤独の中にいる人たちのために、主イエスは十字架の死という影を負って、産まれてきてくださいました。イエスの誕生と死によって、私たちに尽きることのない大いなる喜びのギフトを贈るために。クリスマス―それは神からの喜びのギフトなのです。 見えなくても、触れなくても、確かに心に響き渡る神の御声を聴くために、私たちは飼い葉桶に眠る主イエスの前に座り、その顔を拝するのです。 「あなたは決して一人ではない」。インマヌエルなる神の御子の声を聴くために。