共依存 | カタセテロジュマン

共依存

表紙


見出し


重箱の隅の隅までつっつきまわし、見つけたものを材料に屁理屈こねくりまわすのがライフワークのアタシとしては、やり過ごせない、見過ごせない。

「昭和天皇は『女系』を望まれるか」

だとー?

昭和天皇、とっくっくーに崩御されてますがな。

どう望まれても、どうにもならんやろ?

ていうか、生きてもいない昭和天皇がどう思うかではなく、今現在生きている人間が、考えて決めることなんじゃないのー?_


やっぱさ、日本人って、誰かのせいにするのが好きなことは、否めないってことよね。

「だれだれさんが、ああいったから(だから私がそうしたの)」

「だれそれさんが、ああしてるから(だから私も同じにするの)」

( )内は、暗黙の了解らしいぜ。

「だから、今度のことは私の責任じゃないんです」

「みんなしていることで、私が悪いんじゃないんです」


その、どこの何某だかのだれそれ氏は、具体的な存在であっても、象徴的な存在であっても、延いては単なる流布、根も葉もない流言飛語でも全く問題ないわけよ。責任の発端が自分にないこと、けれど、「どこか」には、厳然と存在する、そのことが必要。

それは、みんな一緒、の連帯感を生み、誰かが何とかしてくれる、という依存感を育み、果ては責任転嫁を自己の正当なる主張と勘違いさせるようになるのであーる。

まあ、はっきりとしないわけだから、責任おっかぶせても、即座に被害をこうむる人はいないわけで、つまり、父さん、僕は、これでも、精一杯、がんばったわけで・・・・・てなもんです。


拝啓あの世の天皇陛下さまがあのように思し召してあらせられるのですから、みなさま、そういたしましょう。

(そりゃそうだろうよ。もう、いない人と意見交換できないからね。仕方がない、ですましゃいいんだろ?)

国民が望むのであれば、私ども象徴皇族といたしましては、異論はございませぬ。

(そりゃそうだろうよ。今さら谷に下って平民と同じように勤労しようったって、仲間になった下々の方が窮屈でかなわないって)


まあさ、誰かのせい、は誰かのおかげでもあるわけだし、一概に全否定もできないけど。


あたしは、できたら、自分の両手の届く範囲のことは自分でして、そして、両手の届く範囲の大切な人を大事にして、自分でできることは自分でやっていきたいなあ。

助けてほしいときは助けてって言っちゃうと思うけど、でも、誰かの言葉や流行だからでなく、もし、それらを選択するとしても、自分の意思希望だって、自覚していたい。失敗したときは、失敗した、その自分を、悔しく思いたいなあ。

あんたの、誰かの人生じゃない、あたしの人生だからさ。