愛のあいさつ | カタセテロジュマン

愛のあいさつ

最近、ものごとを覚えていられなくなった。思い出しにくくなってきた。
夢で見たことか、どの人にいつ話したことか、区別がつきにくくなってきた。
だから、今日、聞いたこと、みたこと、覚えているだけ、書いておこう。
いつか、必要になることがあるかもしれないから。

医師の話。

要するに人格に問題があるということですよ。EQが低い。IQは悪くないと思いますが、EQが駄目です。
あなたのいうことは、それはあなたが中学1年生ならいいんです。でも、今その年齢ではいけません。
社会に適応しないんです。それは、そのまま続けるとひとりふたりとあなたの周りの人が去っていき、
最後にはひとりぼっちになってしまうんです。

正直なところはいいと思います。でも、それでは、そのままではいけません。つまりあなたは「オトナコドモ」なんです。
でもあなたは不思議な人です。一方で、ものすごく子供っぽく、けれど、診断書を書くから仕事を暫く休みなさいという私に、それはできないという断固拒否する大人の責任感をみせる。
あなたは私に今日全てを話していないとは思いますが、30年この仕事をしてきた私には、だいたいひと目でわかるんです。
けれど、あなたのことが今わからない。不思議な人です。もっと何か心の中に持っているはずです。

病気ではありません。ただ鬱症状がひどいです。それは確かです。
もし、今年の3月か4月、あるいは、去年の終わりくらいに何も思い当たることがないとするなら、おそらくそれは、何年も前から、少なくともあなたの転機だったという3年前には始まっていたのではないかと思います。

とにかく、少し弱い薬をだしますから、それを飲んで様子をみてください。音は消えるかもしれません。痛みもなくなるかもしれません。頭の中がでていってしまう感じもとれるかもしれません。
あなたは、このままでは駄目ですが、でも、正直だし、純粋だから、私は好きですよ。

これ以上思い出せない。
途中からあまり聞いていなかった。
つぎつぎと運ばれてくる待合室の患者のカルテを眺めながら、もう、いいです、といいたくなってしまった。
やっぱり思っていることを口に出すことはいけないことだったらしい。
あいつにしてやられたか。口惜しい気持ち。

私は前から知っていたことを、改めて認識させられたような気がして、面倒くさくなってしまった。
非難されているような気持ちになって、聞き流したくなってしまった。
でも、約束したから、19日にはもう一度、行くよ。
桜桃忌にはいけなくなるかも。根性がないから。努力もがんばりも嫌いだから。
中学1年生の心持ちしかないから。

もっと何か心の中にもっているだろうか?
私はただ、この頭の中身がでていかないように、このままの生活を保てるように、したかった。
私は自由になるために歩き、走りつづけ、ようやく辿り着いた場所でミリエル司教から「この人に差し上げたんですよ」といって手渡されたその最高級の銀の燭台をながめていられるこの生活をつづけていきたいだけなんだ。
だから、頭の中身がなくなって、目が見えなくなり、耳が聞えなくなり、燭台に触れる手を動かすことも出来なくなることが恐ろしくて恐ろしくて、こんな腐った脳ミソでさえ、ここに、この頭蓋にとどめておきたかっただけなんだ。

私はひとりだっていい。
だれが私を見捨てたって、私はその銀の燭台を、そこに灯る火を見ることさえできれば、いつまでだって、膝を抱えて、その冷たい床に座りつづける。
羨望の、緊張の、歓喜の思いで、眼をそらさずに、まばたきするのも惜しく、見つめつづける。
そして銀の燭台が時折その火を揺らめかせ、銀色を煌かせるのを逃さずに目にするとき、
その煌きが鈴の音となって私の耳に届くとき、
その振動が芳香となって私の肺に届くとき、
私は息をし、生きていることを実感し、喜び、誰かに、何かに、少しは自身に感謝するのだから。
そして、とても微笑んでしまう自分が嬉しくてたまらなくなるのだから。

「愛の挨拶」。
その樂曲を突然思い出した。
その音楽を無性にききたくなった。

私はこの自分を失いたくない。
こうして見つめつづけていたいと願う自分を失いたくない。
だから、この頭に枷をかけ、飛び散らないようにしたい、それだけを、ただそれだけを望んでいるのに。

世の中には、私は、異物らしい。
どうして?
こんなに素敵な一級品の銀の燭台をみつけたんだよ。
みんな見つけただろうけど、私だって見つけたんだよ。
私だって、私だって、みんなと同じように、この綺麗な宝物をちゃんと美しいって理解したじゃない!
それなのに、どうして、それを、認めてくれないの?それだけではだめなの?
私には他のことはできないんだもの。
だって、私は、中学1年生じゃなくなっちゃったけど、でも、遅れたけど、遅刻したけど、でもやっと、やっとみつけたのに。初志を貫徹したことにはならないの?あの日の目標を達成したじゃない。そのほかに何もなくてもいいって思って、今日まで探してきたものを見つけたじゃない!
がんばったって、それは、がんばったって言ってもらえないの?

何が純粋だ。何が正直だ。何が私は好きですよ、だ。
駄目だって言ったんじゃん。
駄目だって。
私は純粋でも正直でもない。
ただ、私は欲しかったものを、ようやく見つけたから、卑怯で姑息で醜悪な時間を駆使したその果てにようやくみつけたから、
それを手放したくないってわがままな固執で言ってるだけだよ。
それを手放さずにいられるように、頭を縛っておきたいだけだよ。

中学1年生じゃないよ。
小学校1年生の時にそれを探そうと思ったんだ。その気持ちのまま今日まできたんだ。
もっとコドモで悪うござんした、だ。

もう見つめてはいけないのかもしれないと思った銀の燭台のある部屋へ帰りたいと思った。
外へ出た私の耳に、
「こんにちは」という少女の声が遠くに聞えた。
角をまがって、赤いランドセルを背負った少女が現れた。
ああ、この子が今の声の主なんだ。
眼があった。私はいつになく、微笑んだ。
するとその子は一瞬固めた表情を氷解させ、私に発した。
「こんにちは!」
私はこたえた。
「こんにちは」
その子は微笑み歩いていき、次の角で、煙草を吸っていたおそらく初めて会うのであろう男に向かって、また声をかける。
「こんにちは!」
男もこたえる。
「こんにちは」
少女は角を曲がらずまっすぐ歩き、今度は知り合いの年配の婦人に挨拶し、少し余分に言葉を交わしていた。
愛のあいさつ。
それはその作者の意図したものとは異なるかもしれないものだけれど、
今、私に届けられた、見知らぬ男に届けられたその笑顔と言葉は、
愛の挨拶だったと感じた。

傘が役に立たないくらいずぶぬれになるほど降った雨はすっかり上がり、水平線の上では青色と雨雲とそして太陽の光が仲良く空を分け合っている。

帰ろう。
私の銀の燭台のある部屋へ。
私は老いた中学1年生でもその部屋に入ることはまだ、許されている。と思う。
帰ろう。
この頭が散り散りにならずにいられる
その部屋へ。

愛の挨拶-Salut d'amourというのがその原題なんだって。
ここにも銀の燭台の魔法がかかっていた!
なんという偶然!或いは必然!
私は嬉しくて、また、笑ってしまった。
そして私は急いだ。
私の銀の燭台が静かに置かれた部屋へ。
きっと、老いた肉体を身にまとった少女をまだ待っていてくれると信じさせてくれる、その部屋へ。


Salut d'amour / Edward Elgar

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