有森也美いますかい? | カタセテロジュマン

有森也美いますかい?

書くべきことは、私には何もない。
ただ、日々触れることごとに、疑問、不満、憤懣をいちいちに作り出しているだけ。

外国語を、私はしゃべれない。
だから、せめて自由に使える(と思っている)日本語に、いちいち神経質に、過敏に反応する。

三品→「さんしな」はやっぱりイヤだ。
「にしな(ふたしな)」と「みしな」を聴き間違えられないように、という配慮かもしれないけど、好きになれない。
「いちしな、にしな、さんしな」より、「ひとしな、ふたしな、みしな」が好き。

「身を粉(こな)にして」、は、音韻的に呼応していないから、好きじゃない。
「み、を、こ、にして」、というのが、リズムを感じて好き。

「ら抜き言葉」あるいは「れる言葉」は、好きになれない。
未然形の「ない」をとってしまうと、活用語尾の無くなる単語、
見る、着る、出る、来る、を可能動詞にした場合、
見られる、着られる、出られる、来られる、となるべきところを、
見れる、着れる、出れる、来れる、と言うのは好きになれない。
そればかりか、
「行く」→「行ける」となるところを→「行けれる」というのはどうにも我慢がならない。
「れる」という助動詞が尊敬表現と重なり、わかりにくいから、といった理由もあり、言い易いから、といった風潮もあり、また、文法的には「ら」がない変化の方が、原則に一致している、ということは、否定しません。
言葉は変わっていくもの。
でも、自分からは進んで変えたいと思わない。従来あるものを、できるだけ、使っていきたい。変化に私が手を貸さずとも、いずれは変わっていくのだから。

だから、
「**さん、おられますか?」という電話等での表現も好きじゃない。
方言として、ということであれば、それは大いに結構だと思います。
けれど、世間一般的な尊敬語として使うことには参加したくない。
「おる」は「いる」という普通動詞に対しての謙譲語であり、「れる」「らる」など尊敬表現の語尾をつけて、尊敬語にする、という方法は、安物の金メッキみたいで、好きになれない。
「あなたは今申されました」というのも同様。
謙譲「申す」→普通「言う」→尊敬「おっしゃる」
というのが話し手の位置関係だと思っているので、一般的には、「おっしゃる」というのが、相応しいのではなかろうかと感じます。
せっかく、へりくだりを知ることのできた日本文化に生きていても、相手を見下すような逆転尊敬語は、やっぱり現代日本人の、
「義務はともかく権利は主張すべし」
「悪いのはみなお前たち、私は一切悪くない」
「こんな私に誰がした」
といった負の責任の他人本位傾向と合致していて大変結構なのかもしれません。
何かの「せい」では、誰かの責任。
何かの「おかげ」は、私の権利。

全部、私の、ただの、愚痴。
私は、生まれは関東なので、終始一貫方言でしゃべっている人については余り感じませんが、電話、報道、講演、などで、共通語とともに、敬語の上下関係が反転している表現を聞くと、とても落胆します。

・・・だから、あの方が時々「おられる」「もうされる」というのも、ごめんね、私は好きじゃない。あの方に、似合わない気がして・・・・・・。

と、これも、私の身勝手な押し付け。独りよがりのイメージのお仕着せ。
どうぞ、お気を悪くなさいませぬよう・・・・・・。

頭も悪く、日本語も満足にできないせいか、日々、こういった些細なことばかりが気になってしかたがありません。

それにつけても、ようやく身に着けたと思っていた伝達手段としての言語である日本語、ぜんぜん通じないんだなあ。人並みにできると思っていた日本語、やっぱりだめだったんだ。
人並みにできることなんて、やっぱり、なんにもないんだなあ。
実感。

ことばのこと、考え出したらきりが無い。
でも、もう、日本語すら、意志の疎通の道具として使えなくなってしまったんだから、何も、ない。
言うべきことも、書くべきことも、なにもない。

あり、おり、はべり、いまそかり。