山の病院 | カタセテロジュマン

山の病院

全面ガラス張りの壁に固定された長テーブルに長椅子、そこに腰掛けて手術室を上方から見学している。
 三人ほど隣の男が小さなワニを連れていた。いくら小さいからといってもワニは鰐。噛まれたらどうしようといぶかしんだその時遅く彼の時早く、飼主の手をするりと抜けたワニは隣の人の足元をくぐり、次の隣の膝を越え、再び足元へ降りたと思うと私の右の向こう脛に食いついたのだった。
ああ、やっぱりだ。やっぱりこんなことになってしまった。どうしてくれるんだとわめきつつ、謝りもせず無理やりワニを引き離そうとする飼主を制止し、病院へ搬送するよう慇懃無礼に依頼した。しかしここは病院なはずでは?
 担架に乗せられ処置室へ運ばれる。ワニはきょとんとした目で脚を咥えたままである。痛みというより寧ろ精神的な衝撃の方が大きかったので、脚を振ってみたらもっと強く噛み込んでくるのだろうかという他人事のような好奇心に駆られ、担架の揺れに合わせて人に気取られないように、そっと2、3回、寝たままの脚を上下に振ってみた。心なしか、ワニの口に離れてなるものかという意地のような力がこもった気がしないでもなかったが、痛いかどうか感ずるよりも、どーんと大きな音と共に突破した観音開きの扉に驚いている間に、てきぱきと処置が始まり、麻酔が施されてしまった。
 眼が覚めたときは小さな共同病室の片隅の椅子に腰掛けていた。何故ベッドではないのか、と不愉快に感じたのがきっかけか、間もなくしてやってきた2人の女性看護師のやることなすこと気に入らない。ガーゼを取り替えるからこっちの椅子へ移動しろ、脚をその台に乗せろ、などと言う。このままで治療の道具をこちらの場所まで持ってきやがれ、脚はお前が台へ乗せやがれ、何故ならそのために2人一組でやってきたんだろう。と思ってしまったらもう、止まらない。だいたい、その制服の色はなんだ?ピンクのワンピース、制帽に蜜柑色の前掛けとは、ひどいセンスだ。おまけに目に刺さりそうな前髪にはらはらと肩にゆれる茶髪、その小汚い髪の毛が私の傷口にでも落ちて感染症にでもなったら責任取れないだろう?
 日々培われた性根というのは一朝一夕には変わるものではなく、毎日毎日職場や通勤途上や晩酌の際に不満憤懣ばかり口にしている私は、
「あなたがた、」
とそのひと言を皮切りに、麻酔中に口をきけなかったことの鬱憤を晴らすかのように、2人の娘に悪口雑言を浴びせ、罵った。我ながら、言っていることは尤もだとは思うが、何もそんなに意地悪く責めて立てる必要はないと感じつつ、口をついて出てしまう言葉が最早止まらない。ああ、この娘たちが私のこの叱責に閉口、悔し涙を流しつつ、失礼します、とこの場を去ってくれないだろうか、そして、上司たる医師やら看護師長やらがやってきて、彼女達もまだ勉強中で未熟ですから勘弁してやってくださいとお決まりの謝罪を述べてくれないだろうか、そうしたら、こちらはほっとした気持ちを押し隠し、わかっていただければ結構、などと被害者はその場においての全権大使みたいな顔をしてぷいと横を向いてみたりできるのに、などと、自分で撒いた種の成長にそれこそ閉口していた。
 残念ながら現実はそう上手くはいかない。彼女達は悔し涙を流すどころか、黙ったまま聴いていたその場をガーゼやら薬やらごと放り出し、恨めしそうに私に一瞥をくれて、ひと言も発さないまま退室してしまった。なんだか拍子抜けして、一方安堵した私は、腑抜けたように廊下や室内を見るともなく眺めていた。
 それほど長い時間がたったわけではない頃、別の2人組の女性看護師がやってきた。何事もなかったようににこにこと世間話をし且つてきぱきと処置を終え、さあ、どうぞこちらへ、と私に立って歩くことを促した。既に戦意喪失している私は黙ったままおとなしく脚を引きずりつつ付いて行った。
 廊下を何度も曲がり着いた病室は2人部屋、それにしては広々としていた。ベッドに案内された私は、なんだか何もかも面倒くさくなった。脚がさほど痛まないのもなにやら癪に障って、これでは誰にも同情してもらえないではないかと、理不尽な弱者の権利を口の中で主張しつつ、不貞寝を決め込んだ。ワニに噛まれたのも、あの娘達にあんな仕打ちを受けるのも、どうせ私の日々の素行が悪い所為だ、どうせそうなんだ。
 眼が覚めると空いていたもうひとつのベッドに新しい患者が入ったようだった。こちらに背を向けて、身の回りの道具を引出しや箪笥に収めていた。男なのか女なのかわからない髪形と背格好で、そして動きだった。どこか病気のような様子でもないし、患者は別な人で、この人は付き添いなのかもしれない、などと、暇に任せて勝手な想像をしていたらまた眠ってしまった。まったく、何もしていないのによくもこう眠くなるものだ。とうに切れたはずの麻酔は脳内にまだ作用しているのか。
 何か音がしたような気がして眼を開ける。見るともなく同室の人のベッドをみる。今になって気がついたが、この部屋のベッドの配置は変わっている。アルファベットのTの形に、私のベッドが縦棒を、もう一方が横棒を担っている。私の足元にそのお方が横たわる形になるのがなんだか失礼に感じるが、縦棒と横棒の間には広い空間があり、さほど気にすることはないようにも思える。
 やはりこの人が患者であったかと思しき先の方は立っていた。依然こちらに背をむけて、化粧をしているような、髪を整えているようなしぐさをしている。隣には髪の長いどこかで見たような人がベッドの上に広げた紙の上にある何かを大事そうに包もうとしている。私は起き上がってそれが何か見ようと思った。ベッドの紙に置かれていたのは、かつらだった。少し湿り気があるような様子で、それをきちんと整形し、紙で包もうとしているようだった。
「さあ、これですっかり染め終わったからもうだいじょうぶよ」
長い髪の人が言った。その時初めて、その人が誰かわかった。ミワ先生だった。

 ねえさん、ねえさんのこと、話しておかなければ。後でねえさんは見舞いに来てくれるはずだから、その時すぐ話しができるように、ねえさんのこと話しておかなければ。
 私は痛くもない脚をわざとらしくひきづってTの横棒ベッドの方へ近づいてこんにちはと声をかけた。ミワ先生は僅かな笑顔で挨拶を返してくれた。背を向けていた同室患者も振り向いたが、無言で再び向きを戻した。化粧をしているのかと思っていたが、黒い大きなサングラスをしていて、表情はなかった。その無表情に拒絶ではない気配を感じて、私はねえさんのことを話した。初めミワ先生は単に一ファンのお喋りとして生返事で聴いていたが、ねえさんは既に何度もミワ先生の会や舞台に出かけているし、会ったこともあるはずなんです、と言うと、何故かそれまで無関心だったはずのサングラス氏と顔を見合わせて、急に様子が変わった。ファンだもの、それくらいのことは有り得るだろうとまた軽くかわされると思い、特に何か策があって言ったわけではないその言葉による2人の反応に少しびっくりして黙っていると、ミワ先生はやさしく、ねえさんは何時頃くるのかと尋ねた。私は今が朝だと思い込んでいたので、午後だと思うけど、時間は約束していないからわからないと応えた。とは申せ、ねえさんが来るかどうか、本当はわからない。私が来て欲しいと思っているだけだ。第一ここにいることをねえさんに知らせたかどうかも記憶がない。でも、きっときてくれるような気がしていた。ねえさんは私が来て欲しいと思う時に必ず来てくれるのだから。
 それなら、午後になるまで少し出かけましょう、とミワ先生は散歩に誘ってくれた。私は脚をひきづっているが、それが大した怪我ではないことはお見通しで、寧ろ少しは身体を動かしたほうがいいと思ってくれているようだった。一も二もなくなく承諾し、3人連れ立ってでかけた。外へ出ると、ここはどこかの山にある病院だった。坂道を降り、谷へ向かって歩く。暫く行くと人が大勢集まっている所があり、手摺がついて、そこから、動物園の白熊の池を覗き込むような形になっていた。覗き込むと、確かに白熊の池のような水溜りがあり、けれどそれは作り物ではなく、川の一部分が偶然プールのように形作られたものだった。左右が岩で閉じられているが完全ではなく、底に近い部分は地下河川となってどこかの川へつながっている様子だった。
 天然プールの水は、入浴剤を薄めて入れたような青のような緑のような空色のような色だった。ここで見ているよりずっと深度があるような遠近感がわからなくなるような半透明さだった。何か動いたような気がして眼をこらしていると、水の奥深くから横長のものがあぶり出しのように浮き上がってきた。人々が喚声をあげた。大きな生き物だった。顔は鹿、身体はおたまじゃくしの、全長数十メートル、プールの縦横一杯になってしまうような大きさだった。完全には水の外に出ないので、どんな色をしているのかわからないが、水の色から判断すると、白っぽい金色のように思えた。縦横一杯になってしまっているので、ほとんど動かず、その場に止まっている。息をしているのかいないのか、鼻でさえ、水面に出さない。いったいこれはなんと言う生き物なのか、或いは人集めのための作り物なのか、驚くというより呆れてみていると、1人の小さな老人が岩を伝ってその鹿じゃくしの尻尾のそばへ下りていった。手には銀色に光る大きな魚を持っている。エサをやろうというのか。でも、プール一杯に位置を占めている鹿じゃくしは向きを変えることができない。というより、エサと思しき魚に気づいていないか、気づいていても興味がないようだった。私はその小さな老人本人がエサになってしまうのではないかと、緊張と期待に胸が高まったが、魚が無視されていると気づいた老人はさっさと諦め、もときた岩肌をするすると伝って人垣に紛れてしまった。
 3人で散歩に来たことをすっかり忘れていた私はその時声をかけられて、やっとミワ先生について歩き始めた。先に立った2人は並んで私の前を歩き、ミワ先生は右手に煙草を持ち、黒いタートルのセーターに黒いスラックスだった。サングラス氏は長い黒いマントだった。サングラス氏はとても聞き取れないような小さな声で話し、ミワ先生は元気のある早口で喋っていた。2人は背が高く歩幅も大きく、急ぎ足でないと置いていかれてしまいそうだった。2人とも私の脚の怪我のことなど頓着していなかった。私は相変わらずわざとらしく脚をひきづりながら、背の高い2人と、煙草の匂いにつかまるようにして2人を追って歩いた。
 見失わないようについて行くことに専念していた私は、気がついたとき、漬物やら土産物やら売っている店の前にいた。そこは先ほどの小さな老人の店だったらしく、老人が大きな声で人に指示していた。仕切りなおして鹿じゃくしのエサを用意し、またプールへと向かう仕度をしているようだった。間もなく数人の人足を従えて、時の声をあげたかと思うとあわただしく出発していった。一方ミワ先生は、蕎麦を注文していた。病室へ運ぶように指示していたが、注文した蕎麦がないと言われると、それじゃあと別のものをいいつけ、歩き出した。私はなんだか、追いかけ歩いたことにすっかり神経が疲れてしまい、何を感ずることもなくなり、ただうつむいてついて行こうとしたら、店の女将がでてきて、白いプードルを私に抱かせた。人懐こい犬で、おとなしく私に抱かれるままにしていた。
 店を出て橋を渡ると病院の通用口、最初の角を右に曲がると小さなエレベーターがあった。さっき初めて入院だかで来たはずなのに、ミワ先生たち、この辺りにくわしいのだろうか。エレベーターの横に小さな箱があり、そこに小さな白いものがあったので、矢張り仔犬かと思い、それなら一緒に連れて行くかと覗いて見たが、あくびをしながら爪を伸ばしたのは仔猫だったので、脚のみならず、顔やら腕やらまで怪我をしては叶わないので、連れて行くのをやめて、ついでにプードルもその箱に置いていくことにした。
 小さなエレベータには私たちとほかに2人ほど乗り合わせた。何階まで行くのかわからないでいると、ねえさんはどんな人かとミワ先生が話し掛けてきた。ねえさんのことを尋ねられたので急に嬉しくなって、ねえさんはこんな人です、こんなことができます、こんなことをしています、と逐一説明した。ミワ先生は男なのか女なのかわからないような人ね、と言った。外国語ができるのと聞かれたので、日本語と英語とフランス語ができますとというと、サングラス氏に今度こんな子に頼んだらどうかしら、と何か嬉しそうに話し掛けたところで、エレベータが止まりドアが開いた。人に押されるようにして降りたのでその話しの先が聞けなくなってしまった。ミワ先生はエレベータを降りたところにあるポストから2通の手紙を取り出し、開けるように言って私に持たせた。一通は薄くて封が糊でぴったりに貼られたもので、中身は何かの応募の手紙のようだった。読んで聞かせると、ああ、わかったわ、と興味もなさそうにしていたので、次の一通を開いた。中には別々に折りたたんだ何枚かの紙、「狼男」という題名の芝居の企画で、主役はミワ先生になっていた。狼男の役をやるんですかと私が尋ねると、面倒くさそうに、そうなのよ、と私から受けとったその手紙を一瞥し、元通りに封筒にしまった。
 そうこうしているうちに病室がみえてきた。私はなんだか自分のうちに戻ったような気がして少し嬉しかった。部屋へ入ると、二人の人がいた。ねえさんだ!
 「ねえさん!」
と声をかけるとねえさんは振り返って、私の方へ歩いてきてくれた。ねえさんと一緒にきてくれた人は誰だか知らない人だが、ねえさんと頭から足の先までそっくりお揃いの格好をしていた。髪型はベルギーのタンタン風、茶色かベージュの三つ揃いのスーツの上着を脱いだ格子柄か何かのベスト、袖の生地をたっぷりとった白いシャツ。男の人のような服装だった。ねえさんは私がミワ先生と一緒に戻ってきたので、少なからず驚いていたようだったが、私がねえさんにお礼を言うより紹介するより早くミワ先生がねえさんを迎えた。手をとって挨拶をし、すぐに話しをはじめてしまった。ミワ先生は矢継ぎ早にねえさんに話し掛け、ねえさんは、驚いて、ひとことふたこと返事しては、またあれこれ質問され、といった様子だった。
 サングラス氏はまたベッドを背に壁の方を向き、化粧だか、髪の手入れだかを始めた。私の縦棒ベッドはねえさんとミワ先生の長椅子になった。私はサングラス氏の横棒ベッドに腰掛けて2人のおしゃべりを聞くともなく聞いているうちに、音楽を聴いているような気分になり、また眠くなってきて、そこでそのまま横になって眠ってしまった。