出迎えるキッチン
私の住まいは、大げさに言うなら、ただいまとドアを開けるとすぐベランダになってしまうような、小さな古いアパートの一室。ただ、睡眠のために帰ってくる部屋。横になって眠れるだけの場所があれば充分だ。誰も待つ者はなく、誰かを待つわけでもない。夜明けとともに起床し、仕事に出て、日付が変わる数時間前に戻ってくる。月、火、水、木、金、5つ曜日を数えたら、土曜日曜はこの地で何をするでもなくぼんやりと過ごす。
ある日の朝焼けに感動し、今度の休みには早起きしてこの浜辺を歩こう、などと思う予定は未定、決定にあらず、時には、土曜日も仕事をし、或いは日曜日に出勤し、完全に休みだとしても、散歩どころか、ただ部屋に転がって眠りをむさぼっているような体たらく。この部屋は、ただの寝倉。名実ともにぴったりだ。
いつものように、寝倉へ戻ってきたある晩、いつもの習慣で、キッチンで手を洗おうとしていたときだった。
何か、音というか、声というか、歌のようなものが聞こえるような聞こえないような、かすかに耳に響いた。気がした。気のせいだな。手を洗い、カーテンを閉めた。
私は家では夕食をほとんどとらなくなってしまったので、食事のしたくはしない。山登りの果ての帰宅だから、水分だけはとりつつ、手足を伸ばして一日を終える準備を始めるようにしている。
冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出すべく、キッチンへ戻った。さっき持ってきておけばよかった。失敗。
大した距離でもないくせに、何か損したような無駄に費やしたような気になってみたりしている自分が、ケチくさい。冷蔵庫のドアに手をかけようとしたとき、何かが、また、聞こえたような気がした。
あれ?さっきの?音?声?
声、だ。歌ってるのか、喋ってるのか、小さな、声、だ。まちがいない。喋ってるんだ。でも、どこから?
隣に誰か客人でもあったのかな。
隣から、話し声やテレビやラジオの音が聞こえたことは今まで1年に1、2回あるかないかだ。暮らしていないのではと思うほど、聞こえてこない。私など、大音量でステレオをかけたり、真夜中に洗濯したりいろいろしているけど。でも、冷暖房の室外機の音は、ベランダへ出れば聞こえるときもあるし、住んでいることは確からしい。
冷蔵庫から、ビールとペリエを取り出し、歩きながらテーブルの上に置き、一度閉めたカーテンを開けて隣の様子をうかがってみた。今は6月で、今日はいい陽気だから、エアコンも冷暖房の室外機のモーター音は響いてこない。窓を開いてみよう。このあたりは、潮風のせいか、草むしりでもしなければ蚊に刺されることはないので、夏の夜でもためらわずに窓を開けることができる。アパートの隣の家のご主人が庭に出て、秋の品評会のための菊の支度をこんな時間までしている。蚊に刺されてるだろうか?いや、それよりも、我が家の隣室だ。部屋から漏れる明かりの様子はうかがえない。ということは、留守だ。
窓を閉め、カーテンを勢いよく音を立てて閉じる。
さて、それなら、先ほどから聞こえているあの小さな声は何者が発しているんだろう。
このような場合、人によっては、霊の仕業と考え、言いようのない恐怖の紙風船にすっぽり包まれてしまうのかもしれないが、私は違った。いえ、私だって、それらのどんとこい超常現象を恐れたり或いは畏怖したりという気持ちや感情は、人並みの3分の1弱くらいは持ち合わせてはいる。がしかし、大概そのような状況にめぐり合わせないし、もしやめぐり合っていても鈍感なために自覚していなかったり、或いはまた、めぐりあって恐怖におののいたくせに、時の流れとともにすっかり忘れてしまっているのかもしれない。いずれにせよ、今回の、この小さな声は、恐怖、という類の感情を喚起させない。それどころか、どこか、かわいらしい、楽しそうな印象を受ける。何かうれしいこと、楽しいことをぺちゃくちゃおしゃべりしてる女の子たち、という感じだ。
どこから、その声がしてくるのか、私は確かめようと思った。
キッチンのどこか、だ。
シンクまわり、冷蔵庫、食器棚、テーブル、行ったりきたり、居間に置いたビールがぬるくなってしまうのも忘れてしばらくあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、その声の出所を探した。
今ひとつ杳としてはっきりはしないものの、なんとなく、換気扇のあたりでそのしゃべり声はしているようだった。換気扇からなのか、換気扇へ消えていくのか、両方なのか、そんなように感じられた。
とりあえず、その声の場所がわかったので、ひとつ溜飲を下げ、一休みすることにした。出しっぱなしのぬるいビールと発砲水をもう一度冷蔵庫に戻し、別のキリリと冷えた方の缶とボトルを取り出しながら、また、換気扇でのおしゃべりは続いていた。なにかほほえましい気がして、そっとしておこう、と静かに冷蔵庫を閉めた。
翌日、いつものように出かけ、いつものように帰宅した。昨夜のおしゃべりさんたちのことは、朝起きたときにはすっかり忘れていた。いつものようにドアを開け、手を洗い・・・・・・、そのとき、思い出した。というより、聞こえてきた。昨日と同じだ。同じような音量の、同じような音質の、同じような話し声。ふーん。なんだろう。もしかして、何か私に用事があるのかな?うーん、でも、なんだか、この感じではそういうことでもなさそうだ。ただ、おしゃべりする待ち合わせ場所にしてるのかな、ここを。
昨日同様、怖くも不快でもないので、そのままにして、お茶を飲み、シャワーを浴び、眠ってしまった。
このおしゃべりさんたちは、それから、数日、私の帰りを出迎えるように、換気扇のあたりをサロンとして毎晩私が眠るまで飽きることなく何かを語り合っていたようだ。私は特別に気にもとめていなかったので、それが何日くらい続いたか、わからない。せいぜい、長くても1週間くらいだっただろう。そのうちに、ある晩帰ると、その声がしないことに気づいた。
あれ?今日は?聞こえない?
まあ、いいか。
私は少し心を砕いていることがあって、そちらの方がどうしても優先されてしまい、他のことは、あまり頓着できないでいたからだ。実態のわからない声のことで、いろいろ考えたりする余裕がなかったのだ。
数週間が経った。いろいろなことに少しずつ進展があり、様々なことを考える余裕がでてきた。
私は、あの声のことを思い出した。あれは、確かにどこかで聞いたような、懐かしいような、決して不快でない、どちらかというと好感のもてる声だった。
そして思い当たった。
あれは、私の死んだ妹の声だ。私に話しかけていたんだ。妹が生きていた頃は、家でもちゃんと夕食をとっていた。彼女は私が食事の支度をするのをみながら自分のベッドから背中越しによく私に話しかけたりしていた。
あれは、妹の声だ。確かにそうだ。何のために?いったいなぜ?彼女は私を許すはずないのに。少なくとも私は許されるとは思っていない。それなのになぜ、暖かい、懐かしい、愛しい、後押しするような、あのお喋りで、毎日私を迎えてくれたの?おかえりなさい、と言うように、私が帰宅して真っ先に手を洗うあの場所に待っていてくれたの?
どうしてなのか、わからない。でも、なんだか、それでいいんだよって、微笑まれたような気がした。許すとか許されないとか、そんなこと誰もこだわってないのに、私一人でそれにしがみつくように、ひとりの孤独から出ようとしないでいるだけじゃない、もうそろそろ、その考え、やめてもいいんじゃない?、といわれているような気がした。一番大切にしたかった、一番許して欲しかった、今はもういないその存在に。
それは、私が14歳の時、夏休みの美術室で授かった生命、妹は、私の実の娘だった。
許されて後押しなどされるはずはあり得べくもない。これは警告だ。警告なんだ。私一人、新しい仕合せを脳天気に手に入れようなどと滅相もない考えだという、妹からの、娘からの警告なんだ。
私は結婚しようと思ったことはないし、これからもするつもりはない。
また、いつの日か、ドアを開け、手を洗ったとき、あのお喋りが聞こえたら、それがしあわせというものなんだ。
das gemeine
ンダスケ、マイネ
2005-06-22 20:27:45