高校生の頃、付き合っていた彼女のおばあちゃんが亡くなりました。


彼女は悲しみの中で、「お腹が減るのが本当につらい。」って泣いてました。


そんな彼女のことが本当に愛おしく思えた時のことを思い出しました。





東日本大震災によって多くの方々が命を失い、多くの方々が家族を、親戚を、


友人を、知人を、大切な人を失い、


家を、車を、田畑を、思い出を、何もかも全てを失い悲しみに沈み、途方に暮れ、


寒さと戦い、飢えをしのぎ、希望を失いかけている時に、




私はお腹が減ります。のども渇きます。。




そして食料を口に運び、飲み物をためらいなく飲みます。


お金を入れれば自動販売機から缶コーヒーが出てきますし


売り切れも見当たりません。




ビールも毎晩飲みます。




「後ろめたさ」   と   「不謹慎」




「義援金を送る」けど、家計が揺らぐほど出来るわけではない。


「救援物資」といいながら新品のタオルを出してきて棚に直して、


洗濯している使用済みタオルをダンボール箱にせっせと詰める。


「あの古くなったコートがまだあったよね。ほら、タンスの奥に・・・」




いいじゃないですか。



「万が一の時の必要最小限だから。」って言い訳しながら買いだめする。



命懸けで私たちの為に原発に立ち向かっている人達を称賛しながら、


我が身を案じて近寄るのを拒むドライバー。




「被災していない俺達は飲みに行って金を使って、景気を回復させて


経済を活性化させて貢献しようぜ!」って言ってる人はおそらく


震災前も変わらず飲みに行ってたし、使っている金額は今も変わらない。




いいじゃないですか。




震災の翌日、ばあちゃんが亡くなりました。97歳大往生です。


多くの親族に見守られて、棺に沢山の花をたむけられて火葬された


ばあちゃんは本当に幸せ者だと思いました。



最後のお別れの時は多くの親族が涙を流し、嗚咽する声が聞こえましたが、


屍が焼きあがるまでの時間は、ミニ宴会です。笑い声が絶えませんでした。



いいじゃないですか。




焼きあがったばあちゃんの骨を見て泣く親族は一人もいません。


「これがのど仏です。少し壊れてますが仏様が座っているように見え・・・」


掛かりの方の説明に「へ~~」「ふ~~ん」と、興味深そうに聞き入るみんな。



「もっと入りますよ~。そちらのおはしを持ってる方、頭がい骨の方も


入れてあげて下さいね~。まだいけますよ~。」


てんこ盛りの骨壺。



いいじゃないですか。




思い切り悲しんだから、もういいんです。泣かなくてもいいんです。




長い間施設に入っててボケてからも実際のところ随分親族に迷惑も


掛けてきたんです。



本音は「悲しいけど、ようやく肩の荷が降りた。」って思っている身内はいるはずです。




でも、そう思ってもいいんです。




面倒見てきた叔父さんや叔母さんは本当に本当に大変だったんです。



だから、「やれやれ」って思ってもいいんです。




僕が学生時代の頃、両親が共稼ぎだった為に毎日毎日バスに乗って


家の掃除、洗濯、そして晩御飯を作ってくれてたばあちゃんです。



ばあちゃんのおかげで健康に今も生きてられます。


血がつながっていないのに一生懸命世話をしてくれました。




でも、


お腹が減ってもいいんです。


酒を飲んでもいいんです。


買いだめしてもいいんじゃないですか。


命を危険にさらさなくてもいいじゃないですか。


新品は残しておいてもいいじゃないですか。




誰も責めたらあきません。


誰も責めんときましょ。




そして自分を責めるのもやめましょ。



今出来ることやりましょ。


やれる範囲でいいじゃないですか。


後ろめたさは     いらんでしょ。




忘れることが一番アカンことと違いますか?



苦しんでいる私たちの多くの仲間がいることを忘れたらアカンと思います。


忘れることだけはアカンと思います。




おばあちゃんのことは死ぬまで忘れません。



だから今、苦しんでいる人達が完全に復興するまで


何年かかっても、ニュースに流れなくなっても絶対に絶対に


忘れないようにしよう。


そして出来ることを出来るだけいつまでも続けていこう。



と、心に誓いました。