雨の気配がする。静かな夜。日付が変わってもまだ眠れずにいる。

 昼間に梔子の花を見た。歩いていなければ気づかなかった。甘い香りがして視線を変えるとそこに梔子が咲いていた。白く柔らかな花びら。ほんの数秒だけ足を止め、またすぐに歩き出した。それだけの事がずっと頭に残っていて、一体何がそんなに心に引っ掛かったのだろうと少し不思議なくらいだった。

 誰に話すでもない、そんな小さい出来事が積み重なって、毎日が流れるように過ぎて行く。足音を殺してやって来た夜に少し戸惑いながら、昼間に見た光景をもう一度頭の中で描き直した。一軒家の植え込みに咲いていた梔子の花。鮮やかな緑の葉。昼下がりと夕方の間。陽射しは弱まり始めていた。

 深い海の底に沈んでいくように、音が消えてゆき、気温が下がっていく。本を読む気にもなれず、かと言って眠れるわけでもなく、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。ペディキュアを塗り直したばかりの爪先が冷たい。仕舞うタイミングを失った薄い毛布を膝に掛け、それを巻きつけるようにして足を包んだ。

 似たような夜が何度でもやって来る。いつも何かを諦めかけている時に。

 これが自分の現実なのか想像なのかわからなくなってきて、起きたら全部夢だったなんて事があったらいいのにと思う。昔、好きだった人の顔をもう思い出せなくなって、色んな事をどんどん忘れていって、それなのにどうでもいい事ばかりを思い出して、思い出したら思い出したで、誰かが私の腕を掴んで引き戻そうとして。

 あぁ、紛れもなくこれは現実で、これといって戻りたい過去なんてないんだ、私には。今しかないんだ、私には。そろそろ眠った方がいい。あの花を見た事だけ書きたかったのに、それだけでは足りない気がして、余計な事を。いい加減、眠った方がいい。これは全て本当の事ですと、また嘘を吐いてしまう前に。

 梔子の花の、あんなに甘い香りを、もう明日には忘れてしまっている。雨に濡れた白い花が瞼の裏に浮かんで、これはたぶん本当の未来なのだと思った。


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photo by YPS


『六月、梔子の花が咲いたら / One lie makes many.』