
美しい人が好きだった。
人間は情報の80%程度を視覚から得ている。イギリスのジャーナリスト、ウッドロー・ワイアットが残した「男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる」という名言がある。私も若い頃は彼の言葉通り、外見ばかりで女性を選んでいた。性格を全く考慮しなかったというわけではないが、彼女達に興味を持つきっかけはほとんどがその外見だった。
10代の中頃から今まで、恋人と呼べる関係にあった女性は何人かいた。彼女達とはそれぞれの思い出があり、付き合いの短い人もいればそれなりに長い人もいた。彼女達は一人ひとり確かに違う人であるのに、過去になってしまえば皆一様に個性がなくなった。私が彼女達に抱いた特別さが嘘のように色を失い、どこにでもいる女性に戻っていった。
それでもたった一人だけ、今でも色を失わずに記憶に残っている人がいる。彼女が他の女性達に比べて特別美人だったとか、そういうわけではない。もちろん彼女は外見も美しかったが、ただそれだけの人ではなかった。彼女の何が私にそう感じさせたのか、今でもよくわからない。理屈ではない彼女の何かが私の目を奪ったとしか言えない。
それは初恋でもなく、最も長い恋でもなかったはずなのに、私はいつも彼女の事ばかりを思い出してしまう。あの温室で初めて彼女を見つけた時の事を。私は彼女の横顔をしばらくの間盗み見ていた。無意識のうちに彼女が自分の方にゆっくりと振り向いてくれる事を願っていた。その癖、目が合った後の事など何も考えていなかった。
結局のところ、私は恋がどういうものであるか上手く言葉にする事ができない。ただの本能や性的衝動だと言う人もいるし、もっとロマンティックな言葉を並べる人もいる。顔が好みだから、優しくしてくれたから、尊敬できるから。人を好きになるきっかけは様々だが、私が彼女に抱いたそれは、そのどれとも違っていたように思うのだ。
振り向いた彼女と私の目が合った時、一瞬だけ、それでも確かに時間が止まった気がした。彼女は少し不思議そうに私を見つめた後、軽く微笑んだ。その時、私は自分がどんな顔をしていたのか知らない。彼女の微笑みに自分は上手く応えられたのだろうか。後になってそれを知る術もなく、彼女は私の前からいなくなった。
たった一人で過ごす晴れた午後に、私はあの日の事を思い出す。温室を埋め尽くす植物と、緑の香りと、彼女の華奢な後ろ姿を。自分の方を振り向いて欲しくてたまらなかったその横顔を。もうどこにも引き返せなくなった、今もまだ。あれを恋だと呼ぶ事が出来ないのなら、私はまだ本当のそれを知らない。
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