ここでも食料難は深刻である。本土からの輸送が途絶えた島では食料生産に力を入れ、「山の頂上までさつまいもを栽培し耕作面積は全山を蔽うて“耕天到”といつた姿」(註1)だった。
昼夜を問わない米軍機の来襲は食料生産にも影響を及ぼしていた。夜でも月明かりさえあれば銃撃してくるため、田植えは月が没した真暗闇の中で行われた。それでも食料は不足し住民は蘇鉄の澱粉を食べていたという。 ではこの島は一体どこだろうか。記事からは「沖縄の山々が快晴の日は遙かに見える」南西諸島の島であることは分かる。だがこれだけでは特定は難しい。
そこで手掛かりになるのは島に配備されていた対空火器の推移である。沖縄本島に米軍が上陸した頃にはなかった対空火器が、記事の書かれた頃には増強されたため米軍機も恐れて無闇に攻撃してこないとう。つまり四月始めには対空火器の配備がなく、五月二四日頃には配備されていた島ということになる。 南西諸島で対空火器の配備された島としては、奄美大島、喜界島、徳之島、宮古島、石垣島等があげられる。これらの島々のうち徳之島を除く全ての島には米軍の沖縄上陸以前から対空火器を装備した部隊が配備され、飛行場や陣地の防衛に当たっていた。
この中の唯一の例外が徳之島である。一九四五年三月一日の空襲で徳之島守備隊が対空戦闘に使用した武器は、第七五飛行場中隊では高射機関砲(二基)と軽機関銃(註2)、独立混成第六四旅団では小銃と軽機関銃(註3)であった。少数の高射機関砲を除けば歩兵用火器で応戦していたのである。
対空火器の不足のため徳之島飛行場は、四月中旬ともなると不時着以外の使用は困難となっていた。この状況を憂いた徳之島守備隊長の高田利貞少将は大島防備隊に対空部隊の派遣を要請した。
これを受けて財田三男中尉を指揮官とする部隊(二五ミリ機銃一二門を装備。)が派遣された。先発隊は四月二三日に後続隊も二九日には徳之島に到着し、五月四日から射撃を開始した。(註4)同隊は敗戦までに八機撃墜四機撃破の戦果を上げたという。(註5)記事中の「最近ではこつちの対空火器も増強されたので敵機も恐れて中〉急降下して来ない」(註6)のは、財田隊の活躍によるものであろう。このことから五月二四日の記事の島は徳之島の可能性が高いと考えられる。
(註1)朝日新聞 五月二四日
(註2)防衛研究所図書館所蔵『三・一南西空襲戦闘詳報』
(註3)防衛研究所図書館所蔵『奄美守備隊空襲詳報 二○・三・一』
(註4)『わが町の戦中戦後を語る(思い出の体験記録集)』(瀬戸内町中央公民館 一九八九) 一三七~一三八頁
(註5)天城町役場編『天城町誌』(天城町役場 一九七八) 八七○頁
(註6)朝日新聞 五月二四日