奄美大島守備隊戦記(7) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

ヤフーブログから移行しました。随時更新していいきますので、よろしくお願いします。

 奄美大島には重砲兵第六連隊の他にも、様々な部隊が配備されていた。陸上勤務第七一中隊(隊長 宇梶猛夫中尉。奄美大島と徳之島に配備。)、特設水上勤務第一〇二中隊(隊長 田中良男中尉)、奄美大島陸軍病院(隊長 永田一男少佐)、第三二軍航空情報隊第二警戒隊(隊長 江頭千年少尉)、第七船舶輸送司令部沖縄支部古仁屋出張所(隊長 筑瀬猛少尉)、船舶通信独立第二大隊第二中隊第三小隊(隊長 嘉納大信少尉)、海上挺進第二九大隊の一部(隊長 卓野義雄中尉)、海上挺進第一一大隊の一部(隊長 石川芳春少尉)、船舶忠勇隊(救難部隊)、第七野戦船舶廠古仁屋出張所(隊長 村田義一少尉)、第三二軍野戦貨物廠古仁屋出張所、第三二軍野戦兵器廠古仁屋出張所、特設警備第二一〇中隊(笠利。隊長 原田輝夫中尉)、特設警備第二二一中隊(名瀬。隊長 黒木安見大尉)、特設警備第二二二中隊(古仁屋。隊長 久保井米栄中尉)、大本営陸軍部特務隊第二特務班(隊長 石井直行少尉)、海上挺身第二九戦隊の一部(隊長 山本久徳大尉)、船舶砲兵司令部の一部(隊長 花里博中尉)だった。他に沖縄憲兵隊の分遣隊(分遣隊長 小竹重芳少尉)が古仁屋に、分駐所(所長 青木武雄軍曹)が名瀬に配備されていた。(註1)

 古仁屋北側の山腹には、独立混成第六四旅団の独立混成第二二連隊第七中隊(隊長 大石洋中尉)が布陣していた。「兵員は総数二百二十名で、ほとんどが未教育の兵で、その内現地召集兵約四十名、幹部は一年志願の将校三名に、予備役召集の下士官若干名、火器として交付されたのは小銃だけ、それも兵員の半数だけ、機関銃はずっと後になって現地で支給を受ける」(『奄美での』二四七~二四八頁)状態だった。独立混成第六四旅団の小銃不足は初年兵を中心に、各島で見られたが、大石隊の状況はその中でも特にひどい。

 陸上勤務第七一中隊は一九四四年七月一五日に水戸で編成された。七月三一日に門司を出港し、八月八日に古仁屋に上陸した。(註2)

 特設水上勤務第一〇二中隊は、朝鮮の大邱で編成され、一九四四年八月四日に古仁屋に上陸した。そこで重砲兵第六連隊の指揮下に入り、船舶の揚陸作業に従事した。八月二一日には第二・第三小隊が徳之島の平土野港に上陸した。両小隊は独立混成第六四旅団の指揮下に入り、船舶からの揚陸作業・飛行場構築及び砲兵陣地構築に従事した。その後第一小隊も合流し、一二月二三日には沖縄本島へ向かった。(註3)

 その後同隊は沖縄本島で地上戦に巻き込まれているので、奄美諸島にはいないはずである。ただ奄美諸島でも朝鮮人軍夫の存在が確認できるので、部隊の一部が残留したのだろうか。

 第三二軍航空情報隊第二警戒隊は、人員は六九名で、要地用の電波警戒機(レーダー)一基を装備し、米軍機の来襲を警戒していた。電波警戒機は一九四四年七月二三日に到着し、一〇・一〇空襲で来襲した米軍機を探知している。(註4)

 第三二軍野戦貨物廠古仁屋出張所の隊長は黒田中尉(名前は不詳)で、暁部隊の隊長(?)も兼ねていた。民間人も数人使用し、米・鰹節・魚等の入荷・出荷・輸送等を行い、陸軍部隊の台所兼倉庫の役割を果たしていた。(註5)

第七船舶輸送司令部沖縄支部古仁屋出張所は、先述の気象班長の谷口中尉が詳細な手記を残している。気象班員の武器は、中尉が軍刀を持っている他は竹槍のみだった。任務は東京の気象本部からの無電を元に天気図を作成し、在港船の航行可・不可を判定することだった。(註6)

 ある時は、徳之島から来た船舶工兵部隊の部隊長(大尉。私註、おそらく原田大尉。)が、航行不可とした谷口中尉に対して、航行可に訂正して保欲しいと高飛車に出て来た。押し問答の末、谷口中尉は一緒に徳之島に向かうことになった。大発は出港したが、外海は大荒れで艇隊は古仁屋に引き返した。部隊長は誤りを認め、夜は一緒に大いに飲んだ。(註7)各方面から無理難題を言われることも多く、なかなか大変な仕事だったようだ。

 特設警備第二二一中隊は、一九四三年一二月頃に編成されたらしい。一二月一三日に大島中学校に「奄美要塞司令部付楠見中尉名瀬防衛隊常置の挨拶のため来校」(註8)しているが、この名瀬防衛隊が同隊のことだろう。

 黒川隊は標高三七七メートルの見立山に、丸太組屋根は茅葺きの隊舎を建設した。そこは交通の要所で、廃兵用が一八〇度展望できる対空・対艦監視哨として最適の場所だった。(註9)

 一九四五年三月一〇日の陸軍記念日には、名瀬湾で大砲の実弾発射訓練が行われた。大砲は高森山の山上の林の中で、敵兵が海岸に上陸する際に船に向けて発射する短距離砲だった。砲弾は名瀬港桟橋の向こう側数十メートル先に水煙を上げた。(註10)この大砲は一九四三年に名瀬港で座礁した「丹後丸」に装備されていた安式八センチ砲だろう。(註11)

 黒川隊では隊員の訓練のため、名瀬から西方村の篠川校まで一泊二日の日程で行軍をした。全員軍装して午前七時に名瀬小学校を出発し、篠川小学校周辺で野宿をした。帰りは午前九時に篠川小学校を名瀬に帰ったが、行程は峠越えの強行演習で、皆疲れ果てていた。(註12)

 特設警備第二一〇中隊は、笠利町の屋仁山に詰め、コの字型の大きな防空壕を掘り、軽機関銃や三八式小銃の操作訓練が行われた。(註13)

笠利町に隣接する龍郷町でも、一九四三年に奄美大島要塞砲兵連隊の指揮下に警備隊が召集され、赤尾木・芦徳・瀬留・竜郷等に短期間配備され、長雲に兵舎が出来て後、空襲が激しくなるまで長雲の兵舎に詰めた。長雲の兵舎も一九四三年頃に、各集落に奉仕作業を割り当て、五軒くらいの兵舎を建てた。(註14)

 牧野武蔵さんは一九四三年九月に、赤尾木警備隊に二八歳で召集された。隊は地域住民で編成され、「バンデー」と呼ばれる海岸線近くの小高い山に防衛エリアを構えた。直径一五センチの大砲を配置し、一度だけ試験発砲を行った。(註15)

 これらの龍郷町の部隊は、編成時期から判断して、特設警備第二一〇中隊の一部と考えて間違いないだろう。同中隊は笠利町・龍郷町一帯の集落に分散配備されていたのである。それがいずれかの段階で、長雲に集結したらしい。ちなみに大砲は、一九四三年に名瀬港で座礁した「極洋丸」の安式一二センチ砲のことである(註16)

 

(註1)防衛省研究所戦史研究センター所蔵『南方・支那・台湾・朝鮮(南鮮)方面陸上部隊(航空・船舶部隊を除く)略歴 第四回追録』 二三〇頁

(註2)前掲註1 二六四頁

(註3)防衛省研究所戦史研究センター所蔵『第三二軍船舶部隊史実資料(3)』 二一七四~二一七五頁

(註4)防衛省研究所戦史研究センター所蔵『第三二軍電波警戒隊警戒月報綴』

(註5)西山玉男『喜界島守備隊戦記』(私家版) №20

(註6)谷口勝久「戦中古仁屋の街の回顧」(奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第四号』(同会 一九九七)所収) 二六~二七頁

(註7)前掲註6 三〇~三一頁  

(註8)富島甫「我が街古仁屋青春回想」(奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第六号』(同会 一九九八)所収) 三二六頁

(註9)右田昭進『嵐の中で蛇行したヘビ年の青春』(私家版 二〇〇三) 六一頁

(註10)小林正秀「総動員法下名瀬町での思い出」(『奄美郷土研究会会報 第二九号』(奄美 郷土研究会 一九八九)所収) 九~一〇頁

(註11)奄美博物館所蔵『奄美大島旧海軍部隊戦友会の歩み』

(註12)前掲註10 一七~一八頁

(註13)東健一郎「笠利町の戦時について」(『奄美郷土研究会報 第二二号』(同会 一九八二)所収) 三八頁

(註14)東健一郎「竜郷村の戦時(太平洋戦争)について」(『奄美郷土研究会報 第二三号(同会 一九八三)所収) 七九頁

(註15)「めぐりきて夏」〈8〉(『大島新聞社』一九八五年八月一三日)掲載)

(註16)前掲註11