奄美大島守備隊戦記(1) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 奄美大島は奄美諸島の中で、最初に日本軍が駐留した島である。一九二一年(大正一〇)に奄美大島要塞が着工されたが、ワシントン軍縮条約の成立に伴い、一九二二(大正一一)三月に工事は中止され、一九二三年(大正一二)に要塞司令部のみが開庁した。(註1)

 昭和に入り、アメリカやイギリスとの関係が悪化した一九四一年(昭和一六)九月一三日、奄美大島要塞の守備隊として、奄美大島要塞重砲兵連隊(連隊長 宮内陽輔大佐(陸士二〇期))が、下関重砲兵連隊第六中隊を基幹に編成された。編成は連隊本部と二個大隊(六個中隊)だった。編成の理由は、大島海峡が海軍の前進基地や泊地として重要になってきたからだった。人員は千四百名だった。(註2)(以下、本稿では篠崎達男『奄美での戦中の日々 奄美守備隊戦記』(奄美戦記刊行会 一九八四)による場合は、『奄美での』と記した後に頁を記すこととする。)

 二〇日には編成を完了し、二二日には長崎を出港し、二四日には早くも古仁屋港に到着した。翌日からは古仁屋国民学校に宿泊し、三・四日後にはそれぞれの駐屯地に向かった。連隊本部は古仁屋に置き、二個大隊はそれぞれ東西の海峡を扼するように配置された。(『奄美での』三八頁)

 連隊本部は古仁屋の要塞司令部官舎隣接の空地に本部事務室が急造され、幹部の宿舎には既存の司令部職員官舎が充てられた。(『奄美での』四〇~四一頁)各駐屯地では幹部の宿舎と事務室には、既存の砲台監守の職員宿舎が充てられた。兵員兵舎は完成までの間、要塞の倉庫や空弾薬庫等が利用された。地区によっては小学校を利用したり野営したという。(『奄美での』四一頁

要塞保有の火器や観測・通信機材類等が隊に引き渡され、陣地構築が始まった。東地区隊(第二大隊)は皆通崎の大隊観測所が構築されているのみで、砲座の構築等は陣地の位置さえ未定だった。徳浜地区では探照灯の陣地進入の道路が狭く、諸鈍・徳浜・安脚場集落の住民の協力を得て、進入路を急造して陣地に進入した。徳浜砲台との連絡交通のためには、安脚場と諸鈍の間の道路改修を軍民一致して行った。(註3)おそらく西地区の第一大隊も同様に、ほとんど一からの陣地構築だっただろう。

 大島海峡西口は第一大隊が担当した。指揮下の第一中隊は西古見(二八センチ榴弾砲四門、探照灯二基)、第二中隊は実久(一五センチカノン砲二門)と江仁屋離島(三八式野砲四門)、第三中隊は屋鈍(三八式野砲四門)に守備に就いた。東口は第二大隊が担当した。安脚場に第四中隊(一〇センチカノン砲四門)、第五中隊は徳浜(三八式野砲四門)、第六中隊は皆通崎三八式野砲四門)に守備に就いた。第二大隊は他に探照灯一基と三八式野砲二門の記載がある。(註4)この野砲二門は不明である。

 他には少尉を指揮官とする高射砲隊が編成され、古仁屋の街の裏山に陣地を構築した。探照灯は第六中隊の篠崎達男見習士官(当時)を長として、約一ヶ月間要員の集合教育を行った。探照灯は西地区には西古見に、東地区には皆通崎に配備された。高射砲隊と探照灯班は後述する第一次の編成改正時に解散になった。(『奄美での』四八頁)

 一九四一年(昭和一六)一二月八日、太平洋戦争が始まった。この頃には連隊本部の事務室等の建物も、要塞司令部の隣の空地に移転していた。(註5)

 一九四二年(昭和一七)九月二五日、奄美大島要塞重砲兵連隊は編成改正があり、連隊本部と四個中隊に編成が縮小された。西口は西古見の第二中隊(二八センチ榴弾砲四門)、実久(一五センチカノン砲二門)と江仁屋離島(三八式野砲四門)の第一中隊となった。東口は安脚場の第三中隊(一〇センチカノン砲四門)皆通崎の第四中隊(三八式野砲四門)となった。(註6)

 高射砲二門と探照灯二基は要塞司令部に返納した。部隊では多数の将兵が召集解除又は母隊の下関重砲兵連隊関係部隊に転属なった。さらに昭和一四年召集の現役兵が満期除隊となり、部隊の人員は九百名弱に減少した。(註7)これは奄美諸島が前線から遠い後方地域になったため、防衛の重要性が低下したためだろう。

 陣地は電気が通じていないため、灯油ランプの下の生活であった。夜間の巡回勤務は灯油ランプを持っての行動だったが、ハブを警戒して長いハブ杖を持って歩いた。奄美と言っても秋になると朝夕は肌寒いため、木炭班を編成して木炭を製造した。他には漁撈班・農耕班・家畜班等が編成された。(『奄美での』五七~五八頁)

 日・祭日には外出が許可され、兵員は連絡船で古仁屋の町に出かけた。旅館で休憩を取ったり、知人宅を訪ねたり、ヤンゴと言う名の特飲街(陸海軍の慰安所として機能した)で遊んだ。(『奄美での』五八~五九頁)だが一九四三年中頃になると、戦局の悪化に伴い、兵員の休暇も取りやめとなった。(註8)

 部隊の日常の副食類(野菜・肉等)は連隊本部が集中購入して、各中隊に配給する他、各中隊でもキリンの集落から購入した。だが台風の前後は野菜が不足するため、各中隊では漁撈班・農耕班を組織し自活の途を講じた。また加給品として島産の焼酎や黒砂糖を使った汁粉が支給された。(『奄美での』五九~六〇頁)

 一九四二年頃らしいが、東口第二大隊長の岩本儀助少佐の提案で、各隊から製菓の経験者を募集し、古仁屋に製菓工場を建設し、焼饅頭を各中隊に配給した。この饅頭は少佐の名前をとって、「儀助マンジュウ」と称した。この菓子工場は第一次の編成改正の部隊縮小に伴い、閉鎖された。(『奄美での』六〇頁)

 一九四三年の中頃までは、全員を分けて休暇帰郷が許されていた。責任者の統括のもと、名瀬から便船で鹿児島に上陸し、そこで解散してそれぞれ帰郷した。帰りは鹿児島に集結して、責任者が全員を掌握した上で、便船で島に帰ってきた。(『奄美での』六〇頁)

 時には沖縄から沖縄舞踊と沖縄武道の一行、福岡から相生券番の一行、鹿児島からは舞踊団等が来隊して、各地区を巡回した。この他には地元住民の慰問団が各中隊に来隊し、島の踊りを披露した。(『奄美での』六一頁)

 

(註1)防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 一九七八) 一五頁

(註2)下関重砲兵聯隊史刊行委員会『下関重砲兵聯隊史』(同会 一九八五) 二二四頁

(註3)前掲註2 二二四頁

(註4)前掲註2 二二三頁

(註5)前掲註2 二二五頁

(註6)前掲註2 二二五頁

(註7)前掲註2 二二五頁

(註8)前掲註2 二二八頁