徳之島守備隊戦記(3) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 戦闘部隊としては、奄美大島の重砲兵第六連隊から派遣された集成砲兵中隊(野砲四門・一〇センチ加農砲二門)が、大和城山北東山稜に洞窟陣地を構築し、主火線を飛行場方面に予備火線を瀬滝方向と花徳方向に指向していた。(註1)

 このうち野砲二門の一個小隊(隊長 鶴田千平少尉)は、七月一九日に独混二一連隊長命で徳之島へ派遣された。小隊は岡前台地に陣地構築を開始したが、八月一七日には後退配備を命じられ、阿布木名に転進した。(註2)この証言から徳之島では、独混二二連隊進出後の八月一七日頃に、後退配備が命じられたことが判明する。

 野砲二門及び一〇センチ加農砲二門を装備する二個小隊は、連隊副官だった篠崎達男中尉が中隊長となり、九月一日に徳之島に進出した。(註3)

独混六四旅団の各連隊は歩兵砲中隊と速射砲中隊が付属していたものの、砲兵火力が不足していた。そのため旅団は砲兵一個中隊(六門)を編成し、旅団直轄として徳之島へ派遣するように命令したのである。

 旅団の作戦計画は、最後まで飛行場の確保に努めるが、やむを得ない場合は、大和城山の旅団戦闘司令所を中心とする複郭陣地によって米軍の飛行場使用を妨害し、最後の一兵に至るまで抗戦を継続し、国軍全般の作戦に寄与するとされた。(註4)

 この作戦計画を裏付ける資料がある。一九四四年九月二六日に、独混二一連隊鈴木大隊機関銃中隊所属の山口覚伍長は、原田隊長から高田少将の話を聞いた。それによると、本陣地並びに洞窟は、戦車の進入出来ない地形及び火炎放射器の放射距離だけ後退して構築する、砲爆の間は一切なすがままに任せ、陣地直前に敵が侵入した時に初めて攻撃するようにとの話であった。

 しかし飛行場の確保は重大任務なので、敵上陸の場合は、飛行場を利用させないように前進攻撃すべきとされた。複郭陣地に立て籠もる時のことと、飛行場守備のために前進すべきに際しては、

速やかに頭の切替えを必要とすべきとの話があった。(註5)

 また鈴木大隊機関銃中隊の陣地は、第一陣地・第二陣地・第三陣地に分かれていたことが判明する。(註6)それぞれの位置関係は不明だが、陣地が一つではなく、複数縦深的に構築されていたのだろう。

 先述の旅団の布陣は、平土野を守備地域に含む独混二一連隊鈴木大隊が米軍上陸を迎え撃ち、独混二一連隊山本大隊と独混二二連隊は予備隊として戦闘に参加するものである。旅団は八月一七日頃に後退配備に移行していた。具体的な状況は不明だが、水際撃滅を止めて内陸の縦深陣地で米軍を迎え撃つ作戦に移行したのである。ただ飛行場確保が主任務であることは変わらないので、飛行場確保と後退配備をどのように両立させたかは不明である。

 島の東西(平土野から花徳)を結ぶ国道上の村境界線は各部隊の連絡地点とし、「天下茶屋」と称した。この場所には高田少将の筆になる標柱が建っていた。(註7)この標柱を中心に各部隊の駐屯地へ通ずる大小の山路を設け、軍の糧秣廠も設けられた。(註8)天下茶屋を中心とする道路は、予備隊が上陸地点に向かう通り道としても予定されていただろう。

 独混六四旅団の各部隊の装備は貧弱なものだった。大砲や機関銃等旧式なものばかりで、砲弾は四時間分しかなかったという。(註9)徳之島憲兵隊員の塩田甚志さんは、敗戦後に武装解除のため平土野に集められた、明治時代と思われる旧式の大砲三門を目撃している。(註10)この大砲は明治三八年に制式化された三八式野砲か一〇センチ加農砲二門と思われるが、野砲の制定は古いが優秀な性能を持っていた(註11)ので、徳之島の守備隊の兵器が特別旧式だったかは、検討が必要である。

 徳之島の場合、一九四四年一一月入隊の初年兵は「入隊した時ですら、軍靴はゴム底製の粗製品、軍服は半ズボン、短剣のゴム帯など低質乱造で(中略)新兵全員に小銃すら給与がない」(註12)状態だった。またこれは初年兵だと思われるが、天城山には鉄砲を持たない竹槍兵がいたとの証言がある。(註13)

 他にも旅団司令部兵士ですら、小銃が数人に一丁しか配備されていなかった(註14)というので、小銃不足は深刻だったようだ。徳之島に不時着した海軍輸送機の搭乗員は、「島の陸軍守備隊は、大半が木銃装備であった」(註15)と回想している。搭乗員なので、飛行場周辺の兵士を見ての回想の可能性があるが、小銃を持っていない兵士がいたことは間違いないだろう。

 徳之島でも、米軍戦車M4シャーマンへの対抗策が重要視された。破甲爆雷を携帯した兵士を予想進路上のタコツボに潜ませ、肉薄攻撃を行なう訓練が盛んに行なわれた。(註16)旅団司令部陣地の東側の荒れ地では、対戦車の手榴弾投擲訓練などが行なわれた。(註17)

 

(註1)篠崎達男『奄美での戦中の日々 奄美守備隊戦記』(奄美戦記刊行会 一九八四) 二二九頁

(註2)前掲註1 八五頁

(註3)前掲註1 九五頁

(註4)前掲註1 二三一頁

(註5)奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第七号』(同会 一九九九) 三頁

(註6)前掲註5 五頁

(註7)前掲註1 二三〇頁

(註8)特設防衛通信隊記念誌新版下編集委員会『記録のない過去 特設防衛通信隊記念誌』(同記念誌頒布委員会 二〇〇〇) 四一頁

(註9)松村省三『当部の今昔』(私家版 二〇〇五) 一〇七頁

(註10)塩田甚志『生と死の岐路-沖縄戦終焉時のドキュメンタリー』(誠広出版 一九九二) 一二四頁

(註11)前掲註1 四五頁

(註12)徳之島郷土研究会編『徳之島における戦争体験記』(同会 一九九三) 一二五頁

(註13)前掲註8 二三一頁

(註14)前掲註8 二〇三頁

(註15)墨水会編『二年現役第五期 海軍主計科士官戦記』(同会 一九七〇) 一六二頁

(註16)前掲註1 二八七~二八八頁

(註17)前掲註8 四〇頁