島の防衛を担当する陸軍部隊が配備されたのは、一九四四年になってからだった。南西諸島防衛を担当する陸軍第三二軍の指揮下に、独立混成第二一連隊(以下、独混二一連隊と略す。)が五月三日に編成されることになり、連隊長に奄美大島要塞司令官の井上二一大佐が同月一〇日付けで任命された。(註1)
独混二一連隊は五月一九日に編成を完結し、翌二〇日に編成地山口を出発した。五月二三日に門司港を出発し、五月三〇日に奄美大島に到着した。井上連隊長は奄美大島の重砲兵第六連隊を指揮下に入れ、奄美守備隊長として奄美諸島の防衛に当たることになった。(註2)その後連隊の主力は六月一五日に徳之島の平土野に上陸した。(註3)
連隊のうち第三大隊は、沖永良部島・与論島へ派遣されたので、上陸したのは二個大隊である。各大隊は歩兵中隊三個・機関銃中隊一個で編成され、連隊には歩兵砲中隊・速射砲中隊・工兵中隊各一が付属していた。付属の各中隊は徳之島に上陸したと思われる。
七月一二日、独立混成第六四旅団(以下、独混六四旅団と略す。)と独立混成第二二連隊(以下、独混二二連隊と略す。)に臨時動員が下令された。(註4)独混二二連隊は、七月一五日から広島市で編成が開始され、編成を完了して二四日には早くも出陣し任地へ向かった。(註5)連隊は応召兵で編制され、広島県、特に福山連隊区の兵士が多かった。(註6)
独混六四旅団長には、東京陸軍少年飛行兵学校長の高田利貞少将が任命された。高田少将は七月一四日に補職の命令を受け、早速陸軍省・参謀本部へ挨拶に行った。参謀本部では次長室でスルメ・昆布・栗・盃が並べられ出征を祝福され、高級参謀次長の後宮淳大将から親しく激励された。(註7)絶対国防圏のサイパン島が陥落した直後で、次の決戦場となる小笠原・奄美群島・沖縄・台湾・フィリピンは重視されていた。そこへ赴任する高田少将には、大きな期待がかけられていたようだ。
高田少将は東京陸軍少年飛行兵学校長だったこともあってか、航空戦に関心が深かった。またピストの丘の上に立って、直接の部下でもない搭乗員達を迎えた。少将の姿は出撃の時、帰還の時、未帰還機のある時など、いつもそこに見られたという。(註8)また夜間空襲で照明弾や爆弾が投下される中、夜間の飛行場の修理作業も自ら視察した。(註9)
徳之島では大和城山の中腹に少将の宿舎があった。それは自然林を利用して作った粗末な小屋だったという。(註10)これは飛行部隊指揮のため山麓に作った小屋(通称 将軍亭)のことだろう。(註11)将軍亭は粗末な八畳位のかやぶき小屋と伝わっているので(註12)、同一のものだろう。
普段の食事は旅団長も昼食は雑炊を食べる等、自分も部下と同じ生活を送っていた。(註13)部下思いの一面も伝わっており、大島中学校の生徒が通信隊員として動員された際には、通暗号班の将校に、「隊員を大事にしてやれ」と言葉を付け加えた。(註14)徳之島に来た陸海軍搭乗員に対しては、夕食をとっていないと聞くと生卵を渡したり(註15)、訓示後に黒砂糖を渡した。(註16)
挨拶後高田少将は山口市に向かい、旅団司令部を掌握した。門司港で独混二二連隊を掌握すると、単身福岡に向かった。旅団司令部は独混二二連隊と共に、海路奄美に向かった。少将は七月二九日に福岡から飛行機で沖縄小禄飛行場に到着した。福岡からの飛行機が到着しなかったため、その後徳之島へ到着したのは到着後五日目だった。(註17)徳之島飛行場では独混二一連隊長の井上大佐以下が出迎えた。註1は徳之島到着を七月二九日とするが、少将の回想によると八月二日になる。
高田少将は後宮大将から、「陣地はなるべく米軍戦車の近寄り難い所に造れ、戦車に対しては急造爆雷の体当たりをやれ(中略)夜暗を利用せよ、地中からの攻撃を考えよ、艦砲射撃の威力は想像以上だから十分に注意して陣地構築せよ」(註18)と詳細な注意を受けていた。実弟の連合艦隊参謀である高田利種少将からは、「陣地は高い所に是非洞窟を造れ」(註19)と助言された。
これは水際撃滅を狙ったサイパン島が早期に玉砕したのを教訓として、内陸の地形を活用した縦深陣地で迎え撃つことに、日本軍の方針が変更されたためである。沖縄本島滞在中に高田少将は、第三二軍司令部首脳部と意見交換をしており、軍命令に基づいて、守備隊主力は徳之島に配置した。(註20)
(註1)篠崎達男『奄美での戦中の日々 奄美守備隊戦記』(奄美戦記刊行会 一九八四) 七四頁
(註2)防衛研究所戦史研究センター所蔵『独立混成第六四旅団の概況』
(註3)前掲註1 七五頁
(註4)前掲註2
(註5)小川高男『従軍の回想』(私家版? 年不詳) 一九三~一九四頁
(註6)西山玉男『喜界島守備隊戦記』(私家版) №3
(註7)高田利貞『運命の島々 あま美と沖縄』(京都報徳会 一九五六) 四五~四七
頁
(註8)少飛会編『最後の戦闘機』(ノ―ベル書房 一九六九) 一二九頁
(註8)前掲註7 一六九~一七一頁
(註10)重武克彦『回想録』(海風社 一九八四) 二四〇頁
(註11)前掲註7 一六八頁
(註12)当山幸一『私と戦争』(私家版 二〇〇六) 一五八頁
(註13)森脇弘二『沖縄脱出記』(私家版 二〇〇五) 二三〇頁
(註14)特設防衛通信隊記念誌新版下編集委員会『記録のない過去 特設防衛通信隊記念誌』(同記念誌頒布委員会 二〇〇〇) 二五三頁
(註15)甲飛十期会『散る桜・残る桜 甲飛十期の記録』(1972) 五一六頁
(註16)前掲註12 一五八頁
(註17)前掲註7 五〇~五六頁
(註18)前掲註7 四七頁
(註19)前掲註7 五〇頁
(註20)前掲註7 五八頁