喜界島守備隊戦記(4) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 一九四五年(昭和二〇)一月二二日、喜界島は初空襲を受けた。午前中に二波三〇機、午後に一九機が米軍機動部隊から飛来し、飛行場・港湾施設・船舶を攻撃した。機関銃中隊小隊長の西山玉男少尉は、田村大隊長から、爆撃並被害状況の偵察を命じられた。海軍部隊は建物と物資を大分焼失し、海軍兵三名が死亡した。(註1)攻撃が飛行場に集中したため、陸軍部隊には被害はなかったようだ。

 同年一月上旬、田村隊に入隊する初年兵を迎えるため、西山少尉は古仁屋へ徴用した漁船で向かった。翌日少尉は古仁屋国民学校に出向き、六十数名の初年兵を引率して、同じ漁船で島に帰還した。(註2)

 本来初年兵は鹿児島連隊区内の各連隊に入隊するのだが、鹿児島に行くのが困難なため、現地の部隊に入隊することになったのである。初年兵は大島本島と周辺離島の出身者で、喜界島出身者も含まれていた。ただ身長も体重もあまり大きい者はいなかったという。(註3)この時の徴兵検査では、甲種・乙種、二種等全員合格だったという。(註4)

 太平洋戦争も末期になると、男性が次々と召集されたため、平時ならば召集されない、体格が劣る者も召集されるようになった。これはそのような状況を反映しているのだろう。

 この時の初年兵は三ヶ月間訓練を受けたが、訓練の厳しさは言葉では表現出来ないほどで、一日が十日ほどに思われた。寝床に付くと、今度は毛ジラミのためになかなか寝付かれなかったという。(註5)

 この時入隊した第三中隊の松井勇さんの回想によると、食事は白米と味噌汁(ツワブキなどが皮もむかずに入っていた)が出たが、量が少なかった。兵士の中には蘇鉄を食べて中毒になった人もいた。少年兵が古参兵に命令されて、芋泥棒したこともあったという。

 松井さんは島に青年学校の校長先生がいて、先生が食糧を持参して松井さんに面会に来た。休みの日には家に遊びに行ってご飯を食べさせてもらい、食べ物を持って帰って、分隊の同僚と食べた。それでもみんな痩せていて、体重は五〇キロもなかったという。(註6)

 一九四四年中は、食糧はまだ不自由でなく、毎日三度少ないながらも米飯が食べられた。だが一九四五年になると、内地との交通は不便になり、物資の補給は途絶えてしまった。米飯は二度になり、おかゆ・芋・乾パン等に置き換えられていった。(註7)外から補給がないのだから、島内で調達しながら、手持ち分を食い延ばすしかない。現地自活の始まりである。

 内地から携行した倉庫内の米は、その使用を制限した。自給のために島内の休耕地を耕作して、田畑として活用した。食事はもっぱらお粥となり、比較的恵まれていたはずの将校でさえ、「 “当番、今日もはしはいらんのお“言いながら一気に飲んでしまうことができるくらいだった」という状況だった。(註8)

 兵隊の一日の食糧は米二合一勺だったので、一回の飯は掛子にかるく一杯、副食は薄い味噌汁一杯だった。(註9)食糧不足を補うため、一般の兵士は陣地構築に向かう途中に、山道にあるツワブキを採り、これを飯盒で湯がいて食べた。野いちごの実を食べ過ぎて、腹痛と便秘の患者が多数出たという。(註10)

 食糧事情の悪化と反対に作業や訓練は増加したため、「兵隊は次第に疲労し始め、不平、食糧の盗み、けんか等が起こって来た。遂には栄養失調で倒れる兵隊すら出て来た」(註11)という。

 当番兵は炊事場から中隊まで食糧を運ぶ道すがら、周囲を気遣うこともなく、運んでいる桶に手を突っ込んで、食事を盗み食いした。奉仕作業に行く国民学校生徒に付いた指導の兵士は、死んで落ちている鳥を昼食時に焼鳥にして食べた。(註12)

 空腹の兵士は住民から食糧を分けてもらった。陣地構築に動員された志戸桶の国民学校生徒は、行く度に初年兵に芋を分けていた。すると、初年兵は「志戸桶ですか、良かった、芋くれや」と、道路のススキの陰で生徒が来るのを待っていた。(註13)また住民が馬の餌にする芋の皮をザルに入れて通りかかると、日本兵は岩の上から降りてきて、手にとって丸めてほおばっていた。(註14)この日本兵は訓練中だったようなので、初年兵かもしれない。

 初年兵は特に大変だったようで、一九四五年三月召集の兵士は、「飯盒の蓋八分目のご飯かオカユ、おかずはだいたい乾燥野菜のはいった味噌汁」の食事のため、半年で約一〇キロ体重が減少した。(註15)そのため畑のサトウキビを盗んで食べ(註16)、畑の芋づるを盗んで持ち帰って食べて(註17)栄養補給をした。せっかく母親が召集時に持たせてくれた大島紬の国防服を、黒糖に交換して食べてしまった人もいた。(註18)

 それでも喜界島出身の兵士は恵まれていた。家族が慰問に来たり(註19)、夜間に兵舎を抜け出して家で食糧を食べて、帰りには米や黒砂糖を持参して上官に貢いだりしていた。(註20)また民家を訪問して食糧を訪ね歩いた。住民はこうした兵士達を「イモナイカ」と呼んでいた。(註21)また古兵も要領よく、何とかして食糧を調達していたようだ。(註22)

 

(註1)西山玉男『喜界島守備隊戦記』(私家版) 「奄美守備隊戦記 其の二」

(註2)前掲註1 №22から23

(註3)前掲註1 №23

(註4)『坂嶺集落史(二)』(二〇一一) 三七頁

(註5)前掲註4 三七頁

(註6)松井勇さんからの筆者宛手紙より

(註7)前掲註1 「奄美守備隊戦記 其の二」

(註8)小川高男『従軍の回想』(私家版? 年不詳) 二〇九頁

(註9)堤富士雄『喜界島紀行』(私家版 一九八三) 四二頁

(註10)前掲註 二〇九頁

(註11)前掲註1 其の二

(註12)前掲註4 四七頁

(註13)志戸桶誌編集委員会『志戸桶誌』(一九九一) 七二三頁

(註14)前掲註13 七三七頁

(註15)『ルリカケス 第一二号』(奄美瑠璃懸巣会 一九九四) 六〇頁

(註16)前掲註15 六〇~六一頁

(註17)『ルリカケス 第一三号』(奄美瑠璃懸巣会 一九九四) 五二頁

(註18)前掲註17 五三頁

(註19)前掲註13 七三七頁

(註20)前掲註15 六三頁

(註21)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 一九五八) 一二〇頁

(註22)前掲註1 其の二